第二戦隊司令官
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1944年(昭和19年)8月下旬、有馬馨少将(当時、南西方面艦隊司令部附)は内地に帰投、軍令部および人事局より第二戦隊司令官の内示を受ける。第二戦隊は扶桑型戦艦2隻(扶桑、山城)により新編され、第五艦隊(司令長官:志摩清英中将)に編入予定であった。ところが連合艦隊(司令長官:豊田副武大将、参謀長:草鹿龍之介中将)は、有馬少将を南西方面艦隊参謀長にする意向であったという。軍令部と連合艦隊が対立した結果、有馬少将は第三十一根拠地隊司令官に補職(9月10日開設、同日附で発令)。艦隊司令長官級の西村中将が9月10日附で第二戦隊司令官となった。有馬少将は『同中将(西村)は志摩中将と同期であり海上の経験は数等上であり今更第二戦隊司令官でもなかったろうが何も運命である。これで余(有馬)は二度目の生命の代りとなって頂いたのであるが、この日の西村中将の風貌が忘れられない。』と回想している。 第二戦隊(山城、扶桑)は編成と共に第二艦隊(司令長官:栗田健男中将)に編入され、同時に第一遊撃部隊(指揮官:第二艦隊司令長官・栗田健男中将)に部署変更された。大本営海軍部は第二戦隊に戦艦長門(当時、第一戦隊所属)を編入する予定であり、9月4日に昭和天皇へ上奏していた。だが第二艦隊は「長門ノ第二戦隊編入ハ 次ノ事由ニヨリ当分延期シ今戦局一段落ノ機会ニ実施ノコトニ取計ラハレ度」(9月17日1047発電、第二艦隊参謀長 小柳冨次少将)と意見具申し、長門は従来どおり第一戦隊(司令官:宇垣纏中将。戦艦大和、武蔵、長門)として行動した。
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