太平洋戦争終盤
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「浦風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤」の解説
詳細は「冲鷹 (空母)」を参照 11月30日、空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡洋艦摩耶、第7駆逐隊(曙、潮、漣)、浦風は、瑞鳳艦長指揮の下、トラックを出発して内地へ向かった。12月3日朝、冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で航行不能となり、14日朝に沈没した。浦風は単艦で遭難現場へ急行、続いて到着した漣と共に両艦合計約160名を救助したが、冲鷹乗組員便乗者ふくめ約1250名が戦死した。冲鷹には潜水艦スカルピンの生存者/捕虜21名が収容されていたが、1名以外助からなかった。12月5日、横須賀に入港する。6日以降は呉に移動した。 1944年(昭和19年)2月1日、トラック泊地からリンガ泊地への回航に際し、敷島部隊(第二戦隊《長門、扶桑》、第七戦隊《熊野、鈴谷、利根》、第十戦隊秋月・第17駆逐隊《第1小隊:浜風、谷風、第2小隊:浦風、磯風》)として2月1日にトラック泊地を出発、リンガ泊地へ進出した。その後、訓練の傍らダバオ、ボルネオ、サイパンなどへの船団護衛に従事する。3月29日、パラオ大空襲から退避する戦艦武蔵が米潜水艦タニーの雷撃で小破、浦風と磯風は爆雷攻撃を行うがタニーを取り逃がした。 3月31日、第16駆逐隊(初風・時津風沈没、天津風長期修理)が解隊され、健在だった陽炎型8番艦雪風が第17駆逐隊に編入された。17駆は異例の5隻編制(磯風、浦風、谷風、浜風、雪風)となった。5月19日にタウイタウイに進出する。6月9日、駆逐艦磯風、島風、早霜と共に対潜哨戒任務に従事していた姉妹艦の谷風が米潜水艦ハーダーに撃沈された。6月18日-20日のマリアナ沖海戦における第17駆逐隊は、浦風が空母翔鶴の護衛(小沢機動部隊甲部隊)、磯風が空母大鳳の護衛(機動部隊甲部隊)、浜風が機動部隊乙部隊(空母隼鷹、飛鷹、龍鳳、戦艦長門)護衛、雪風が燃料補給船団護衛で、分散配置されていた。一連の戦闘で空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、タンカー2隻(清洋丸、玄洋丸)が沈没した。浦風は矢矧や第61駆逐隊各艦と協力し、米潜水艦カヴァラに撃沈された翔鶴の乗組員を救助した。7月14日、リンガ泊地に再度進出。9月、17駆は第二戦隊司令官西村祥治少将が指揮する扶桑型戦艦2隻(扶桑、山城)の護衛のため呉を往復。10月8日、第17駆逐隊司令艦は磯風から浦風に変更された。同月中旬以降の捷一号作戦では栗田艦隊に所属しサマール沖海戦に参加した。
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太平洋戦争終盤
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1944年11月5日 - 13日のマニラ空襲の後、11月15日附で第一戦隊は解隊、大和は第二艦隊旗艦、長門は第三戦隊に編入される事になった。11月16日に戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第二水雷戦隊の軽巡洋艦矢矧と同戦隊所属第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)、松型駆逐艦〈桐、梅〉(20日分離、馬公回航)はブルネイより日本への帰路に付いた。これが長門の日本海軍時での最後の外洋航海となった。しかし11月22日、台湾海峡沖で艦隊は米潜水艦シーライオン IIから襲撃され、同行していた金剛(第三戦隊司令官鈴木義尾少将)と金剛の右側にいた駆逐艦浦風(17駆司令艦)が撃沈された。浜風・磯風は金剛の生存者を収容した。11月25日、長門は第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)に護衛されて神奈川県横須賀港に到着した。28日、17駆(浜風、雪風、磯風)は空母信濃(大和型戦艦改造空母)を護衛して横須賀を出港、信濃最初の遠洋航海を長門乗組員は全員総出で見送った。その後長門では損傷箇所の修理や整備を実施したが、燃料・物資の不足により外洋に出ることはなかった。 1945年(昭和20年)2月20日、長門と榛名は警備艦に指定される。大和が坊ノ岬沖海戦で沈没すると、日本海軍は損傷や燃料不足のため運用できなくなった残存大型艦を一斉に予備艦へ指定する。4月20日、長門、伊勢、日向、榛名、天城、鳳翔、隼鷹、龍鳳、青葉は第四予備艦となった。6月1日、長門以下榛名、伊勢、日向、天城、鳳翔、龍鳳は特殊警備艦となる。それに伴い長門では副砲や対空兵装を陸上げし、マストや煙突も撤去され、空襲擬装用に緑系の迷彩塗装を施すなどの処置がとられた。副砲は陸上砲台に転用された。アメリカ軍が相模湾に上陸してきた場合、長門が横須賀より砲撃をおこなう手筈だったという。 同時期、米内光政海軍大臣と軍務局は、戦艦長門、空母鳳翔、重巡洋艦利根、駆逐艦数隻をウラジオストクに回航してソビエト連邦(ソ連)に譲渡し、航空機・物資・燃料と交換する計画を立てていたが、実行されずに終わっている。 7月18日、長門は横須賀空襲において空母エセックス (USS Essex, CV-9)、ランドルフ (USS Randolph, CV-15)、シャングリラ (USS Shangri-la, CV-38) およびベロー・ウッド (USS Beleau Wood, CVL-24) 搭載機からの攻撃を受ける。3発の爆弾が命中して艦橋が破壊され、大塚幹艦長や樋口貞治副長など、ほとんどの艦橋要員が戦死してしまう(戦死者35名)。後任艦長は杉野修一大佐(日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の長男)が発令され、それまで池内正方少将が長門艦長を務めた。長門はそのまま修復されることなく終戦を迎えた。
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太平洋戦争終盤
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「長鯨 (潜水母艦)」の記事における「太平洋戦争終盤」の解説
1944年(昭和19年)4月18日より長鯨は呉海軍工廠に入渠し、25mm機銃を増備して27日に出渠した。7月28日、大本営海軍部(軍令部)は大海指第438号により連合艦隊と呉鎮守府から軍艦4隻(長良、長鯨、鹿島、迅鯨)を佐世保鎮守府の麾下に加え、第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)の南西諸島方面物資輸送を命じた。これにより、迅鯨型(迅鯨、長鯨)は沖縄方面への輸送任務に就くこととなった。長鯨が輸送任務に従事中、第十一潜水戦隊には一等巡洋艦八雲が編入され、潜水戦隊旗艦となった。同作戦実施中の8月7日、米潜水艦クローカーの雷撃で甑島列島近海を航行中の軽巡長良が沈没した。九州近海での長良沈没という事態に、作戦の前途が危ぶまれた。 第四海上護衛隊より駆潜艇と駆逐艦海威が迅鯨型2隻の護衛についた。迅鯨型2隻は特殊潜航艇甲標的を曳航した。海軍陸戦隊や甲標的を搭載して8月11日に輸送部隊は佐世保を出撃、沖縄到着後の長鯨は疎開婦女子や遭難陸兵など約800名をのせて鹿児島経由で佐世保にもどった。以後、迅鯨型2隻は第二回沖縄輸送(8月22日~28日)、第三回沖縄輸送(9月6日~11日)に成功した。9月18日、迅鯨型2隻は第四回沖縄輸送を開始する。9月19日、迅鯨は米潜水艦(スキャバードフィッシュ)の雷撃で大破し、駆逐艦海威により沖縄本島に曳航された。その後、10月10日に十・十空襲に遭遇し、迅鯨と海威は沈没した。同時期の長鯨は原隊の第11潜水戦隊に復帰しており、瀬戸内海において伊号第四十七潜水艦や伊号第五十八潜水艦などの新造潜水艦と共に訓練を実施した。 12月19日、特殊水上攻撃機晴嵐を搭載できる伊号第十三潜水艦が第十一潜水部隊(旗艦長鯨)に編入された。12月30日、日本海軍は伊十三と伊号第四百潜水艦により第一潜水隊を編制した。翌31日、第一潜水隊は第十一潜水部隊に編入された。長鯨麾下の各隊・各艦は瀬戸内海で訓練に従事した。 1945年(昭和20年)1月中旬、長鯨は呉海軍工廠で25mm単装機銃を装備した。3月19日の呉軍港空襲では、小数機による空襲を受けたが被害はなかった。長鯨の付近にタンカー「さばん丸」(三菱海運、10,241トン)が停泊しており、米軍機はこちらに攻撃を集中して大破着底に追い込んだ。 5月以降、空襲の激化にくわえて瀬戸内海がB-29が投下する機雷で封鎖される。長鯨をふくめ第十一潜水戦隊も日本海側に移動することになった。6月1日、長鯨は呉を出発する。伊予灘を経由して、4日舞鶴港に到着した。だが日本海側もB-29の空襲や機雷作戦により、安全地帯ではなくなっていた。6月8日、長鯨は舞鶴港外で触雷して軽微な被害を受けた。機雷敷設のため、舞鶴周辺の長鯨と第17駆逐隊(雪風、初霜)も、ほとんど行動できなくなる。7月30日、伊根湾で敵艦上機の攻撃を受け、長鯨は艦橋に直撃弾を受け中破する。戦死者100名以上、負傷者100名以上を出した。初霜は宮津湾で対空戦闘中に触雷して擱坐した。なお、舞鶴周辺に所在の艦艇は大損害を受けたが、病院船(高砂丸、氷川丸、第二氷川丸〔オプテンノール〕)のように被害を免れた艦船もあった。舞鶴周辺所在艦のうち、長鯨は損傷状態で、雪風や軽巡洋艦酒匂は健在のまま、終戦を迎えた。8月18日、艦橋が破壊された長鯨は雪風に誘導されて海軍工廠のある舞鶴まで移動。この時先導の雪風が触雷したが、幸運にも機雷は後続の長鯨との距離約300mの中間の海中で遅れて爆発したため、両艦とも被害はなく済んだ。 終戦後、舞鶴海軍工廠は復員輸送に従事する艦船の修理をおこなった。舞廠は8月15日から12月末まで、長鯨や雪風のほか、軽巡酒匂、駆逐艦楠、海防艦占守や国後など、復員または掃海に従事する艦船60~70隻の整備をおこなったという。長鯨は修理により艦橋の形状が変化、その後は復員輸送に従事した。本来の機関科兵は全員帰郷してしまい、機関科未経験の元神雷部隊隊員(特攻兵器「桜花」部隊)約20名が長鯨に配属された。艦内規律も失われ混乱の中、素人の機関科兵達は機関室火災と修理と整備を繰返しつつ長鯨を運用していった。妊娠中の女性が長鯨の乗船中に出産し、長鯨にちなんだ名前が付けられた事もあったという。1946年(昭和21年)8月15日をもって復員船任務解除。その後は日立造船向島造船所で解体され、1947年(昭和22年)初めに解体完了した。船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたという。
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