太平洋戦争終盤とは? わかりやすく解説

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太平洋戦争終盤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:24 UTC 版)

浦風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤」の解説

詳細は「冲鷹 (空母)」を参照 11月30日空母3隻(瑞鳳雲鷹冲鷹)、重巡洋艦摩耶、第7駆逐隊(曙、潮、漣)、浦風は、瑞鳳艦長指揮の下、トラック出発して内地向かった12月3日朝、冲鷹が米潜水艦セイルフィッシュ雷撃航行不能となり、14日朝に沈没した浦風は単艦で遭難現場急行続いて到着したと共に両艦合計約160名を救助したが、冲鷹乗組員便乗者ふくめ約1250名が戦死した冲鷹には潜水艦スカルピン生存者/捕虜21名が収容されていたが、1名以外助からなかった。12月5日横須賀入港する6日以降は呉に移動した1944年昭和19年2月1日トラック泊地からリンガ泊地への回航際し敷島部隊第二戦隊《長門扶桑》、第七戦隊熊野鈴谷利根》、第十戦隊秋月・第17駆逐隊第1小隊浜風谷風第2小隊浦風磯風》)として2月1日トラック泊地出発リンガ泊地進出したその後訓練傍らダバオボルネオサイパンなどへの船団護衛従事する3月29日パラオ大空襲から退避する戦艦武蔵が米潜水艦タニー雷撃小破浦風磯風爆雷攻撃を行うがタニー取り逃がした3月31日、第16駆逐隊初風時津風沈没天津風長期修理)が解隊され、健在だった陽炎型8番艦雪風が第17駆逐隊編入された。17駆は異例の5隻編制磯風浦風谷風浜風雪風となった5月19日タウイタウイ進出する6月9日駆逐艦磯風島風早霜と共に対潜哨戒任務従事していた姉妹艦谷風が米潜水艦ハーダー撃沈された。6月18日-20日マリアナ沖海戦における第17駆逐隊は、浦風空母翔鶴護衛小沢機動部隊甲部隊)、磯風空母大鳳護衛機動部隊甲部隊)、浜風機動部隊乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳戦艦長門護衛雪風燃料補給船団護衛で、分散配置されていた。一連の戦闘空母3隻(大鳳翔鶴飛鷹)、タンカー2隻(清洋丸、玄洋丸)が沈没した浦風矢矧や第61駆逐隊各艦と協力し、米潜水艦カヴァラ撃沈された翔鶴乗組員救助した7月14日リンガ泊地再度進出9月17駆は第二戦隊司令官西村祥治少将指揮する扶桑型戦艦2隻(扶桑山城)の護衛のため呉を往復10月8日、第17駆逐隊司令艦は磯風から浦風変更された。同月中旬以降捷一号作戦では栗田艦隊所属しサマール沖海戦参加した

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太平洋戦争終盤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 03:13 UTC 版)

長門 (戦艦)」の記事における「太平洋戦争終盤」の解説

1944年11月5日 - 13日マニラ空襲の後、11月15日附で第一戦隊は解隊大和第二艦隊旗艦長門第三戦隊に編入されるになった11月16日戦艦3隻(大和長門金剛)、第二水雷戦隊軽巡洋艦矢矧と同戦隊所属17駆逐隊浦風浜風雪風磯風)、松型駆逐艦〉(20日分離馬公回航)はブルネイより日本への帰路付いた。これが長門日本海軍時での最後外洋航海となった。しかし11月22日台湾海峡沖で艦隊は米潜水艦シーライオン IIから襲撃され同行していた金剛第三戦隊司令官鈴木義尾少将と金剛の右側にいた駆逐艦浦風17司令艦)が撃沈された。浜風磯風金剛生存者収容した11月25日長門は第17駆逐隊浜風雪風磯風)に護衛され神奈川県横須賀港到着した28日17駆(浜風雪風磯風)は空母信濃(大和型戦艦改造空母)を護衛して横須賀出港信濃最初遠洋航海長門乗組員全員総出見送ったその後長門では損傷箇所修理整備実施したが、燃料物資の不足により外洋に出ることはなかった。 1945年昭和20年2月20日長門榛名警備艦指定される大和坊ノ岬沖海戦沈没すると、日本海軍損傷燃料不足のため運用できなくなった残存大型艦一斉に予備艦指定する4月20日長門伊勢日向榛名天城鳳翔隼鷹龍鳳青葉第四予備艦となった6月1日長門以下榛名伊勢日向天城鳳翔龍鳳特殊警備艦となる。それに伴い長門では副砲対空兵装陸上げし、マスト煙突撤去され空襲擬装用に緑系の迷彩塗装を施すなどの処置がとられた。副砲陸上砲台転用された。アメリカ軍相模湾上陸してきた場合長門横須賀より砲撃をおこなう手筈だったという。 同時期、米内光政海軍大臣軍務局は、戦艦長門空母鳳翔重巡洋艦利根駆逐艦数隻をウラジオストク回航してソビエト連邦ソ連)に譲渡し航空機物資燃料交換する計画立てていたが、実行されずに終わっている。 7月18日長門横須賀空襲において空母エセックス (USS Essex, CV-9)、ランドルフ (USS Randolph, CV-15)、シャングリラ (USS Shangri-la, CV-38) およびベロー・ウッド (USS Beleau Wood, CVL-24) 搭載機からの攻撃を受ける。3発の爆弾命中して艦橋破壊され大塚艦長樋口貞治副長など、ほとんどの艦橋要員戦死してしまう(戦死者35名)。後任艦長杉野修一大佐日露戦争旅順港閉塞作戦戦死した杉野孫七兵曹長長男)が発令されそれまで池内正方少将長門艦長務めた長門そのまま修復されることなく終戦迎えた

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太平洋戦争終盤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:55 UTC 版)

長鯨 (潜水母艦)」の記事における「太平洋戦争終盤」の解説

1944年昭和19年4月18日より長鯨呉海軍工廠入渠し、25mm機銃増備して27日に出渠した。7月28日大本営海軍部(軍令部)は大海指第438号により連合艦隊呉鎮守府から軍艦4隻(長良長鯨鹿島迅鯨)を佐世保鎮守府麾下加え第二航空艦隊司令長官福留繁中将)の南西諸島方面物資輸送命じた。これにより、迅鯨型(迅鯨長鯨)は沖縄方面への輸送任務に就くこととなった長鯨輸送任務従事中、第十潜水戦隊には一等巡洋艦八雲編入され潜水戦隊旗艦となった同作実施中8月7日、米潜水艦クローカー雷撃甑島列島近海航行中軽巡長良沈没した九州近海での長良沈没という事態に、作戦前途危ぶまれた。 第四海上護衛隊より駆潜艇駆逐艦海威が迅鯨型2隻の護衛についた迅鯨型2隻は特殊潜航艇甲標的曳航した。海軍陸戦隊甲標的搭載して8月11日輸送部隊佐世保出撃沖縄到着後の長鯨疎開婦女子遭難陸兵など約800名をのせて鹿児島経由佐世保もどった以後迅鯨型2隻は第二回沖縄輸送8月22日28日)、第三回沖縄輸送9月6日11日)に成功した9月18日迅鯨型2隻は第四回沖縄輸送開始する9月19日迅鯨は米潜水艦(スキャバードフィッシュ)の雷撃大破し駆逐艦海威により沖縄本島曳航された。その後10月10日十・十空襲遭遇し迅鯨と海威は沈没した同時期の長鯨原隊の第11潜水戦隊復帰しており、瀬戸内海において伊号第四十七潜水艦伊号第五十八潜水艦などの新造潜水艦と共に訓練実施した12月19日特殊水上攻撃機晴嵐搭載できる伊号第十三潜水艦第十潜水部隊旗艦長鯨)に編入された。12月30日日本海軍は伊十三伊号第四百潜水艦により第一潜水隊編制した。翌31日第一潜水隊第十潜水部隊編入された。長鯨麾下各隊・各艦は瀬戸内海訓練従事した1945年昭和20年1月中旬長鯨呉海軍工廠で25mm単装機銃装備した3月19日呉軍港空襲では、小数機による空襲受けた被害はなかった。長鯨付近にタンカー「さばん丸」(三菱海運10,241トン)が停泊しており、米軍機はこちらに攻撃集中して大破着底追い込んだ5月以降空襲激化くわえて瀬戸内海B-29投下する機雷封鎖される。長鯨をふくめ第十潜水戦隊日本海側移動することになった6月1日長鯨は呉を出発する伊予灘経由して4日舞鶴港到着した。だが日本海側B-29空襲機雷作戦により、安全地帯ではなくなっていた。6月8日長鯨舞鶴港外で触雷して軽微な被害受けた機雷敷設のため、舞鶴周辺長鯨と第17駆逐隊雪風初霜)も、ほとんど行動できなくなる。7月30日伊根湾敵艦上機攻撃を受け、長鯨艦橋直撃弾を受け中破する。戦死者100名以上、負傷者100名以上を出した初霜宮津湾対空戦闘中に触雷して擱坐した。なお、舞鶴周辺所在艦艇大損害を受けたが、病院船高砂丸氷川丸第二氷川丸オプテンノール〕)のように被害免れた艦船もあった。舞鶴周辺所在艦のうち、長鯨損傷状態で、雪風軽巡洋艦酒匂健在のまま、終戦迎えた8月18日艦橋破壊され長鯨雪風誘導され海軍工廠のある舞鶴まで移動。この時先導雪風触雷したが、幸運に機雷後続長鯨との距離約300m中間の海中遅れて爆発したため、両艦とも被害はなく済んだ終戦後舞鶴海軍工廠復員輸送従事する艦船修理おこなった。舞廠は8月15日から12月末まで、長鯨雪風のほか、軽巡酒匂駆逐艦海防艦占守国後など、復員または掃海従事する艦船6070隻の整備おこなったという。長鯨修理により艦橋形状変化その後復員輸送従事した。本来の機関科兵は全員帰郷してしまい、機関科未経験の元神雷部隊隊員特攻兵器桜花部隊)約20名が長鯨配属された。艦内規律失われ混乱の中、素人機関科兵達は機関室火災修理整備繰返しつつ長鯨運用していった。妊娠中の女性長鯨乗船中に出産し長鯨にちなんだ名前が付けられた事もあったという。1946年昭和21年8月15日をもって復員船任務解除その後日立造船向島造船所解体され1947年昭和22年初めに解体完了した船体一部同所浮き桟橋利用されたという。

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