太平洋戦争終盤の行動
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「秋風 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月23日、「秋風」はトラック泊地を出撃、ラバウルに進出して輸送任務に従事した。2月17日、中部太平洋における日本海軍の最大拠点トラック泊地は、米軍機動部隊艦載機による大規模空襲を受け、停泊していた艦艇や地上基地航空隊は大損害を受ける(トラック島空襲。峯風型では太刀風が沈没)。米軍機動部隊が去ったあと損傷艦を退避させることになり、駆逐艦複数隻(秋風、藤波、春雨〈途中合流〉)は工作艦「明石」、標的艦「波勝」を護衛してパラオ泊地へむかった。これ以降、「秋風」はパラオ、トラック泊地、サイパン島方面の船団護衛任務に従事した。4月22日、「秋風」はサイパンを出発し、4月26日に横須賀へ到着、続いて舞鶴に移動した。 5月1日、「秋風」(舞鶴鎮守府籍)と「松風」(横須賀鎮守府籍)は佐世保鎮守府に転籍した。同時に卯月型駆逐艦2隻(卯月、夕月)の第30駆逐隊に編入され、同隊は駆逐艦4隻(卯月、夕月、秋風、松風)となった。第30駆逐隊は第三水雷戦隊(司令官中川浩少将)の麾下であった。「秋風」は機動部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将、第一機動艦隊司令長官)附属となり、フィリピン方面で船団護衛任務に従事した。 この時期、第30駆逐隊の駆逐艦は次々に失われた。6月9日、30駆僚艦「松風」は第3606船団を護衛中に米潜水艦「ソードフィッシュ」に撃沈される。そこで日本海軍は8月20日附で第22駆逐隊を解隊し、同隊所属だった駆逐艦2隻(皐月、夕凪)を第30駆逐隊に編入する。また先のサイパン島地上戦で第三水雷戦隊司令部は玉砕しており、日本海軍は軽巡洋艦「五十鈴」と三水戦の残存艦艇、さらに新造の松型駆逐艦や海防艦をくわえ、連合艦隊の隷下に第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将)を新編した。第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)も第三十一戦隊に所属する。第三十一戦隊新編から間もない8月25日、「夕凪」は米潜水艦「ピクーダ」に撃沈され、9月21日には「皐月」がマニラで空襲を受け沈没した。第30駆逐隊は駆逐艦3隻(卯月、夕月、秋風)編制となった。 9月26日、「秋風」は佐世保にもどった。捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では、小沢機動部隊のタンカー「仁栄丸」を護衛している。第二補給部隊(タンカー〈仁栄丸〉、駆逐艦〈秋風〉、海防艦〈31号、43号、132号〉)という編成である。10月24日、秋風駆逐艦長指揮下の第二補給部隊は呉を出撃、豊後水道を南下した。 10月25日、高知県足摺岬沖合で第132号海防艦が米潜水艦に雷撃されて大破(船体切断)、呉に引き返した。続いて米潜水艦スターレットが補給部隊を襲撃し、「仁栄丸」を撃沈する。護衛対象の消滅により、連合艦隊は海防艦2隻(31号、43号)に台湾への移動とタンカー「良栄丸」の護衛を命じた。
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太平洋戦争終盤の行動
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「旗風 (駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の行動」の解説
詳細は「松輸送」を参照 1944年(昭和19年)3月1日、旗風駆逐艦長は岡田静一少佐から高柳親光大尉に交代。同月より松輸送に従事した。軽巡洋艦夕張を旗艦とする第1特設船団司令部(司令官:伊集院松治少将、後に第1護衛船団司令部に改称)が、東松3号船団を指揮する。東松3号船団の護衛艦は、軽巡夕張(旗艦)、駆逐艦3隻(旗風、玉波、雷)、水雷艇鴻、海防艦2隻(平戸、能美)、駆潜艇3隻。3月22日に船団は東京湾から出航、28日にパラオ行き船団9隻(護衛艦3隻《玉波、平戸、能美》、輸送船6隻)を分離し、船団本隊は30日にサイパンへ到着した。この間、25日に護衛の第54号駆潜艇がアメリカの潜水艦ポラックの雷撃によって撃沈されたが、輸送船に被害はなかった。復航船団は輸送船4隻と護衛艦6隻で4月3日にサイパンを出港、4月10日に横須賀へ無事に帰還した。一方、輸送船山陽丸を護衛してサイパンよりメレヨン島に向かった雷(第6駆逐隊)は、4月13日米潜水艦ハーダーにより撃沈された。 6月18日附で、旗風は連合艦隊(司令長官豊田副武大将)の指揮下に入る。6月25日附で、第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)を指揮官とする『伊号輸送部隊』に加わった。6月28日、第21駆逐隊司令指揮下の第三輸送隊(駆逐艦《若葉、初春、旗風、汐風、夕月》、輸送艦3隻《104号、152号、153号》、輸送船《能登丸》)は横須賀を出撃。6月30日、3隻(旗風、汐風、能登丸)は第三号輸送部隊(本隊)より遅れて父島(小笠原諸島)に到着する。第三号輸送部隊は、既に硫黄島に向かっていた。だが能登丸の荷役が遅れたので、駆逐艦2隻(旗風、汐風)は第103号輸送艦を護衛して硫黄島に向かった。第103号輸送艦を護衛していた第24号海防艦は、前日に米潜水艦(アーチャーフィッシュ)により撃沈されていたのである。 7月1日未明、第103号輸送艦は硫黄島での揚陸に成功するが、同島の砂浜で座礁してしまう。護衛の2隻(旗風、汐風)に救助を依頼しようとしたが、既に見当たらなかった。第103号輸送艦は大発動艇により離岸に成功した。午前9時、2隻(旗風、汐風)は父島に戻る。正午、3隻(旗風、汐風、能登丸)は父島を出発。7月3日、旗風を含め第十一水雷戦隊各艦は横須賀に帰投。伊号輸送部隊は解散した。だが7月4日、米軍機動部隊艦載機(F6Fヘルキャット、ロケット砲装備機含む)は父島と硫黄島を襲撃する。硫黄島の所在兵力は大損害を受ける。また父島近海で第103号輸送艦が沈没、硫黄島で130号が沈没。同方面に残っていた3隻(清霜、皐月、夕月)は、辛うじて横須賀に帰投した。 詳細は「スカベンジャー作戦」を参照 7月下旬から8月上旬にかけて、旗風は引続き硫黄島方面輸送任務に従事する(往路は第3729船団、復路は第4208船団と改名)。8月4日、第4208船団は小笠原を出発して横須賀に向かうが、米軍機動部隊および水上艦艇部隊(指揮官ローレンス・T・デュボース少将)に襲撃され、大損害を受ける。松型駆逐艦1番艦松(第二護衛船団司令官高橋一松少将旗艦。松艦長吉永源少佐)の奮戦により、輸送船は全滅したものの、護衛艦4隻(旗風、第4号海防艦、第12号海防艦、第51号駆潜艇)は生還した(スカベンジャー作戦)。
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