太平洋戦争終盤の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)
「野分 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説
1944年(昭和19年)1月4日、重巡洋艦愛宕、4駆2隻(野分、舞風)は横須賀を出港し、9日トラック泊地に着く。1月15日附で2隻(舞風、野分)は南東方面部隊に編入され、ラバウル方面の輸送任務に従事した。2月12日、トラック泊地帰投。だが、連合艦隊司令部はトラック泊地が空襲される事を予測し、2月10日の時点で戦艦武蔵以下主力艦艇を内地もしくはパラオへ退避させていた。2月15日、第4駆逐隊3番艦の山雲は輸送船浅香丸を護衛してトラック泊地を出発した。しかし2月16日深夜、本土修理のためトラック泊地を出港した第十戦隊旗艦阿賀野が米潜水艦の雷撃で沈没してしまう。トラック泊地に有力なアメリカ軍機動部隊が接近しつつあり、米潜水艦はその先鋒であった。 詳細は「トラック島空襲」を参照 1944年(昭和19年)2月15日、山雲(第4駆逐隊)は輸送船浅香丸を護衛してトラックを出港、サイパンへ向かった。16日、野分は「4215船団」の一艦として第4駆逐隊僚艦舞風と共に巡洋艦香取、特設巡洋艦赤城丸を護衛し、トラック諸島から内地へ帰還する予定だった。だが予定は1日遅れ、乗員に上陸許可が出たり、艦上で映画上映(ドイツ映画「荒鷲」)がなされるなど、楽観的気運が漂っていた。2月17日午前4時30分に出港したが、午前5時よりトラック島空襲に遭遇した。第27駆逐隊(時雨、春雨)は北水道を通過し、空襲で損傷しつつも脱出に成功した。だが第4215船団は逃げきれず、北水道通過後にアメリカ軍機に捕捉された。空襲とその後の水上艦の砲撃により3隻(香取、舞風、赤城丸)は撃沈され、舞風と共に磯久第4駆逐隊司令も戦死した。野分は12時16分にレイモンド・スプールアンス司令官が指揮する米アイオワ級戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)、重巡洋艦ミネアポリス、ニューオーリンズを確認し、12時51分にニュージャージーの砲撃を受けた。40cm砲弾3発が右90度300mに落着、100mもの水柱があがった。野分は36ノットで回避行動を行いながらニュージャージーの斉射を振りきって脱出した。一連の戦闘で野分は戦死者1名、重傷者3名を出した。魚雷を発射するチャンスは全くなかったという。なお阿賀野の救援に向かっていた那珂はトラック泊地北水道でアメリカ軍機の反復攻撃を受け、14時すぎに沈没した。サイパンに向かった野分は山雲と合流した後、2月24日横須賀港に帰港した。 詳細は「松輸送」を参照 横須賀帰投後の野分は第十一水雷戦隊の指揮下に入った。第十一水雷戦隊司令官高間完少将座乗の軽巡洋艦龍田以下、護衛艦9隻(駆逐艦《野分、朝風、夕凪、卯月》、海防艦《平戸、測天、巨濟》、20号掃海艇》)をもって東松2号船団(加入船舶12隻)を護衛、サイパン・グアム方面への船団護衛任務に就く。3月12日、船団及び護衛艦隊は木更津沖を出撃した。3月13日未明、旗艦龍田および輸送船国陽丸が米潜水艦サンドランスの雷撃により撃沈された(国陽丸沈没3時29分、龍田沈没15時36分)。国陽丸の運航指揮官近野信雄大佐が戦死。高間司令官は龍田より野分に移乗し野分を護衛艦隊旗艦とした。龍田生存者は平戸及び駆逐艦玉波に分乗して横須賀へ帰投、軽巡洋艦夕張も龍田救援任務を中止して帰投した。3月19日、野分以下輸送船団(高岡丸は途中分離、パガン島行き)はサイパンに到着した。別方面に向かう輸送船団(テニアン行き《巨濟、柳河丸》、トラック行き《対馬丸、あとらんちっく丸、卯月、夕凪》、エンダービー諸島行き《第一眞盛丸、測天》)は3月20日に東松2号船団から除かれ、第二海上護衛隊の指揮下に入って別行動をとる。3月23日、復航船団(護衛艦7隻《野分〔旗艦〕、朝風、満珠、巨濟、第17号駆潜艇、31号、32号》、加入船舶14隻)はサイパンを出港して内地へ向かう。途中、宗谷が機関故障で脱落した。4月1日、護衛艦隊は横須賀に到着して輸送任務を終了した。 野分が船団護衛を行う間、第4駆逐隊に変化があった。3月25日、高橋亀四郎大佐が第4駆逐隊司令として着任し、山雲を司令艦とした。3月31日、駆逐艦満潮が第4駆逐隊に編入された。4月7日、野分は第十一水雷戦隊旗艦任務を解かれた。4月10日、第4駆逐隊司令駆逐艦は山雲から満潮に変更となる。4月下旬、同隊は瀬戸内海で空母飛鷹の着艦訓練に同行した。 5月12日、駆逐艦7隻(夕雲型駆逐艦《秋霜、早霜、玉波》、第27駆逐隊《時雨》、第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》)は大和型戦艦2番艦武蔵と空母6隻(第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》)を護衛して佐伯を出撃し、タウイタウイに向かう。5月16日に同地到着、以降は対潜哨戒、航空戦隊の訓練警戒等に従事した。 6月10日より第4駆逐隊は渾作戦に参加した。ソロン沖バチャン泊地に集結した艦隊は、攻撃部隊(第一戦隊《大和、武蔵》、第五戦隊《妙高、羽黒》、軽巡《能代》、駆逐艦《沖波、島風、朝雲》)、輸送部隊(青葉、鬼怒、野分、満潮、山雲、敷波、浦波、津軽、厳島、第36号駆潜艇、第127号輸送艦)、補給部隊(第2永洋丸、第37号駆潜艇、第30号掃海艇)という規模であった。だが、アメリカ軍のサイパン来襲にともない渾作戦は中止。艦隊は北上し、小沢機動部隊本隊に合流、6月18日-20日のマリアナ沖海戦に参加した。野分は機動部隊乙部隊(指揮官城島高次少将、第二航空戦隊《隼鷹、飛鷹、龍鳳》、戦艦《長門》、重巡《最上》、第4駆逐隊《満潮、野分、山雲》、第27駆逐隊《時雨、五月雨》、第二駆逐隊《秋霜、早霜》、第17駆逐隊《浜風》)に所属。6月19日、野分は空母瑞鶴の搭乗員2名を救助、20日には空母隼鷹の搭乗員3名を救助した。マリアナ沖海戦で日本海軍は主力空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)等を撃沈されて大敗した。4駆2隻(野分、山雲)は沖縄中城湾で満潮と合同し、船団護衛を行いつつダバオへ向かった。 7月1日、第4駆逐隊(満潮、野分、山雲)は戦艦扶桑を護衛してフィリピンミンダナオ島のダバオを出発。2日から7日までボルネオ島タラカンに滞在したのち、8日タラカン発、14日高知県宿毛湾到着、15日横須賀帰投。この間の7月10日、第4駆逐隊に駆逐艦朝雲が編入され、定数4隻(野分、満潮、山雲、朝雲)を回復した。野分は母港で整備修理をおこなった。 詳細は「スカベンジャー作戦」を参照 7月30日、空母瑞鳳、駆逐艦4隻(第61駆逐隊《初月、秋月》、第4駆逐隊《野分、山雲》)は小笠原諸島・硫黄島方面への輸送作戦護衛任務に従事する。輸送船団は南方諸島(硫黄島)への緊急増援任務を背負っていた。8月2日、瑞鳳の護衛任務を終えて横須賀着、駆逐隊司令艦を満潮に変更した。このあと輸送船団はアメリカ軍機動部隊に捕捉され、松型駆逐艦1番艦松以下大損害を受けている。第4駆逐隊は輸送船帝洋丸を護衛して佐世保へ移動後に戦艦榛名と合同、8月15日に佐世保を出港して21日シンガポールに到着する。以後、リンガ泊地で訓練に従事した。
※この「太平洋戦争終盤の戦い」の解説は、「野分 (陽炎型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争終盤の戦い」を含む「野分 (陽炎型駆逐艦)」の記事については、「野分 (陽炎型駆逐艦)」の概要を参照ください。
太平洋戦争終盤の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 17:19 UTC 版)
「浜風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説
1944年(昭和19年)2月1日にリンガ泊地に進出し訓練に参加。3月サイパン、タラカンへの船団護衛。6月中旬、マリアナ沖海戦に参加。6月14日、駆逐艦「浜風」、「時雨」、「白露」、「響」、「秋霜」で燃料補給部隊を護衛中、「白露」がタンカー「清洋丸」と衝突して爆沈し、「浜風」は「白露」乗組員の救助を行った。19-20日、「浜風」と「時雨」は燃料補給部隊から分離し、小沢機動部隊乙部隊(第二航空戦隊:空母隼鷹・飛鷹・龍鳳、戦艦長門等)に所属して米軍機と交戦する。20日、空母「飛鷹」が米軍機の攻撃で撃沈され、乗組員を救助した。戦闘終了後、燃料不足のため駆逐艦「満潮」、「秋霜」、「早霜」、「時雨」と共に艦隊主力から分離し、先行して帰投した。 7月リンガ泊地に再度進出。9月下旬、第17駆逐隊(浦風、雪風、浜風、磯風)は第二戦隊(司令官西村祥治少将)の戦艦「扶桑」、「山城」のリンガ泊地進出を護衛する。10月下旬、第17駆逐隊は栗田艦隊に所属しレイテ沖海戦に参加した。「浜風」は第三戦隊戦艦「金剛」を中心とした輪形陣の左側に配置され、10月24日のシブヤン海海戦を戦う。15時5分、至近弾と小型爆弾2発命中により第二缶室で火災発生。15時26分鎮火に成功したが、最大発揮速力28ノットとなり、戦死1名、重軽傷者16名を出す。同じく損傷した駆逐艦「清霜」と共に栗田長官から大破した戦艦「武蔵」を護衛するよう命ぜられる。「武蔵」の沈没を19時35分に目撃した。武蔵生存者の救助に従事した「浜風」は約800名を救助した。「浜風」と「清霜」は合計1423名(重傷58名)を乗艦させ、マニラへ避退した。 11月16日に第17駆逐隊は戦艦「大和」、「長門」、「金剛」と軽巡洋艦「矢矧」を護衛してブルネイを出発し、日本本土へ向かう。北上中の11月21日、戦艦「金剛」と第17駆逐隊司令駆逐艦「浦風」を米潜水艦「シーライオン」の襲撃で失った。「浜風」と「磯風」は「金剛」生存者237名を救助した。「浜風」は「浦風」の沈没により、第17駆逐隊司令艦となった。その後「長門」を護衛して横須賀港へ入港。折り返して28日、空母「信濃」を護衛して横須賀を出航し、呉に向かう。29日、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃により「信濃」が沈没。「浜風」、「雪風」、「磯風」は「信濃」生存者1400名を救助した。11月30日、呉に到着した。 12月29日門司を出港、第17駆逐隊(雪風、浜風、磯風)及び「時雨」は、高雄経由シンガポール行きのヒ87船団および同行する空母「龍鳳」の護衛を行った。30日、「雪風」は機関故障により呉に戻り、「浜風」は第17駆逐隊司令艦となった。1945年(昭和20年)1月7日、「龍鳳」を無事に台湾の基隆市に送り届けた。翌8日、台湾の中港泊地で濃霧のなか1万トン級タンカー「海邦丸」と衝突。双方の損傷は軽微だったが、船団は翌日以降の艦載機襲撃で壊滅した。この損傷により司令艦は「磯風」に変更となった。「浜風」は船団及び「磯風」と分離して馬公へ入港すると修理にあたり、1月25日呉に帰港した。 1945年(昭和20年)3月26日に天一号作戦が発動されると、「浜風」は戦艦「大和」や第二水雷戦隊各艦と共に呉を出航し、宇部沖で待機した。4月6日、徳山沖に待機していた「大和」と合流。15時16分、出航した。4月7日、戦艦「大和」および第二水雷戦隊(旗艦矢矧、第17駆逐隊《磯風、浜風、雪風》、第21駆逐隊《朝霜、霞、初霜》、第41駆逐隊《冬月、涼月》)は坊ノ岬沖海戦に参加する。第一次空襲の最中にあたる12時45分、船体後部に爆弾が命中し航行不能。その後魚雷が右舷船体中央部に命中し、艦は前後に分断されて12時48分に沈没した。100名が戦死、艦長以下256名が救助された。(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度47分 東経128度08分 / 北緯30.783度 東経128.133度 / 30.783; 128.133)。「浜風」の轟沈は海戦に参加した多くの海戦参加将兵に目撃され、彼らの手記で取り上げられている。吉田満(戦艦大和乗組員)は、浜風先任将校の証言を以下のように記述している。 のち同艦先任将校(副艦長に当る)の言によれば、轟沈を喫せし契機は、微妙なる回避の失敗にあるものの如し (中略)この日、米機第一編隊の雲間より殺到するや、何はなし威圧せらるる如き息苦しさ「浜風」艦内に漂う 南方水域を広く転戦する同艦にして、かかる例は全く初めてなり 第一魚雷、投下の水煙を上げて後方より進みきたるや、その瞬時、一秒にも満たざる間、気を呑まれて徒らに傍観し、艦長への連絡を怠りしためか、僅かにしてかわし得ず、艦尾に当てて舵を吹き飛ばす と忽ち、相次ぐ爆弾、行動不如意の同艦に集中して水柱、火柱に包まれたりという — 吉田満、戦艦 大和 62-63ページ 6月10日、駆逐艦「浜風(濱風)」は第17駆逐隊、帝国駆逐艦籍、不知火型駆逐艦のそれぞれから除籍された。
※この「太平洋戦争終盤の戦い」の解説は、「浜風 (陽炎型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争終盤の戦い」を含む「浜風 (陽炎型駆逐艦)」の記事については、「浜風 (陽炎型駆逐艦)」の概要を参照ください。
太平洋戦争終盤の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:50 UTC 版)
「潮 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説
1943年(昭和18年)12月中旬から下旬にかけて、駆逐艦3隻(第二十四駆逐隊《海風、涼風》、潮)は輸送船4隻(日蘭丸、良洋丸、日美丸、但馬丸)の釜山からトラック泊地進出を護衛する。12月26日夕刻にトラック泊地南水道着、翌朝到着。28日附で3隻(海風、涼風、潮)は内南洋部隊に編入され、海上機動第1旅団のマーシャル諸島進出を護衛することになった。12月30日、2隻(海風、潮)は第一分団(但馬丸、日美丸)を護衛してトラック泊地を出発、クェゼリン環礁へ向かう。1944年1月中旬までブラウン環礁、ロイ=ナムル島、クェゼリン環礁各地を航海した。なおマーシャル諸島に配備された各部隊は、1月下旬〜2月上旬のクェゼリンの戦いおよびエニウェトクの戦いによって全滅した。 1944年(昭和19年)1月上旬、第七駆逐隊(漣、曙、潮)は第五艦隊・第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)に転籍。1月12日、7駆の中で1隻だけ内南洋部隊に編入され輸送任務に従事中の「潮」は、マロエラップ環礁のタロア島で米軍B-25中爆5機の空襲を受ける。小型爆弾2発が命中、戦死4名重軽傷19名、至近弾による破孔により最大発揮速力20ノットとなり、クェゼリン環礁へ避退した。 1月14日、姉妹艦「漣」は米潜水艦「アルバコア」の雷撃で撃沈され、第七駆逐隊は初雪型駆逐艦2隻(潮、曙)となった。1月18日、丁船団第一分団および護衛2隻(海風、潮)はトラック島に帰着。またポナペ島方面の輸送を担当していた「涼風」もトラック泊地に帰着した。 同日附で第七駆逐隊(潮、曙)は北方部隊復帰を下令される。1月20日早朝、給糧艦伊良湖が駆逐艦皐月と共に内地へ向けトラック泊地を出発するが、アメリカの潜水艦(シードラゴン)の雷撃で伊良湖が損傷浸水した。このため潮はトラック泊地北方の遭難現場へ急行、駆逐艦涼風・重巡洋艦鳥海と共に伊良湖を救援して21日トラック泊地へ戻った。 第七駆逐隊が2隻となってからの駆逐隊最初の任務は、大破した空母「雲鷹」の護衛任務だった。1月26日、サイパンに到着して「雲鷹」および駆逐艦2隻(皐月、初霜)と合流。途中合流した重巡洋艦「高雄」と協力し、燃料不足に悩まされつつ、「雲鷹」を横須賀まで送り届けた。2月13日より「潮」「曙」は休養・修理・整備をおこなう。3月中は入渠修理と出撃準備に費やした。 4月6日、第七駆逐隊(潮、曙)は横須賀を出発して大湊へ回航。11日に到着。以後、北東方面艦隊の指揮下で北方海域を行動した。5月下旬、「潮」「曙」は大湊工作部で魚雷発射管の改造工事を実施、九三式魚雷(酸素魚雷)を発射可能となった。6月中旬、マリアナ方面の戦いがはじまったことに伴い、扶桑型戦艦「山城」と第五艦隊を、強行輸送をかねてサイパン島に突入させる計画が浮上する(「イ号」作戦)。第五艦隊(那智、第一水雷戦隊等)も「山城」と共にサイパン島の戦いに参加するため横須賀に回航。準備をおこなったがマリアナ沖海戦の惨敗などによりサイパン奪還作戦は放棄され、作戦は中止された。6月30日、「薄雲」「潮」「曙」「帝洋丸」は大湊に戻る。 7月5日、第七駆逐隊(曙、潮)と第十八駆逐隊「薄雲」は輸送船4隻を護衛して小樽港を出発。千島列島方面へ航行中の7月7日、「薄雲」が米潜水艦「スケート」に撃沈される。7月9日、護衛中の「太平丸」を米潜水艦「サンフィッシュ」に撃沈される。7月末、絶対国防圏の崩壊にともない南方方面の戦力を拡充するため、第五艦隊は北方任務を解かれて横須賀へ移動した。8月上旬、第二邀撃部隊に編入。第七駆逐隊(曙、潮)は呉に回航されたのち、三式一号電波探信儀三型(13号電探)を装備した。8月24-25日、第一水雷戦隊(阿武隈、霞、不知火、曙、潮)は瀬戸内海大津島で訓練を実施。「潮」が発射した魚雷が「曙」右舷中部に命中する騒動になった。「曙」の損傷は軽度で、9月5日には「潮」と共に八島泊地へ移動した。9月中、第一水雷戦隊各艦は各種訓練を実施しつつ、航空部隊の訓練にも協力する。10月中旬、台湾沖航空戦により大戦果を挙げたと誤認した日本海軍は、志摩艦隊に『敵残存艦隊掃蕩』を下令する。空母17隻を擁する米軍機動部隊(第38任務部隊)はほぼ無傷であり(空母1小破、重巡1・軽巡1大破)、志摩艦隊は途中で追撃を中止したため、難を逃れた。 詳細は「フィリピンの戦い (1944-1945年)」を参照 10月下旬のレイテ沖海戦では、第五艦隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊(重巡2隻《那智、足柄》、軽巡《阿武隈》、第十八駆逐隊《不知火、霞》、第七駆逐隊《潮、曙》、第二十一駆逐隊《若葉、初春、初霜》)としてレイテ湾に突入する計画であった。だが輸送任務のため、第二十一駆逐隊は志摩艦隊本隊とは別行動をとり、10月24日の空襲で「若葉」を喪失した。 10月25日午前3時、志摩艦隊の一艦としてスリガオ海峡へ突入中の「潮」は、「那智」《志摩長官座乗》「足柄」「阿武隈」《木村司令官座乗》「不知火」「霞」の単縦陣の左前方嚮導艦(右前方嚮導艦は「曙」)として行動していた。悪天候のためスリガオ海峡の地形を確認できなかった「潮」は、不安を感じて反転し、単縦陣最後尾の「霞」後方につこうとした。この時、軽巡洋艦「阿武隈」より誤射される。このあと、志摩艦隊は西村艦隊の壊滅と、旗艦「那智」の損傷(「最上」との衝突による)を受けて反転。「潮」は米軍魚雷艇の雷撃で大破した「阿武隈」救援のため、本隊から分離した。米軍の記録によれば、米軍魚雷艇137号は「潮」に魚雷を発射したものの、これが「阿武隈」に命中したという。この後、第一水雷戦隊司令部(司令官木村昌福少将)は「阿武隈」から駆逐艦「霞」に移乗している。また「曙」は西村艦隊残存艦の重巡「最上」の救援におもむき、同艦を雷撃処分したのち本隊を追って避退した。 一方、志摩艦隊本隊から取り残された「潮」「阿武隈」は、たびたび米軍機の空襲を受ける。「潮」は対空戦闘による戦死者を出しつつ「阿武隈」を護衛。「潮」「阿武隈」は25日22時30分にミンダナオ島北西部ダピタン港に入泊して夜をあかし、10月26日午前6時に出港、コロンへ向かう。午前10時以降、米軍爆撃機(B-24およびB-25)の空襲を受け、被弾した「阿武隈」の魚雷が誘爆。12時42分、ネグロス島南西で「阿武隈」は沈没する。「潮」は「阿武隈」生存者を救助したのち、カラミアン諸島のコロン島(コロン湾)に向け撤退した。「霞」座乗の木村司令官は、コロン湾に到着した「潮」および阿武隈生存者に対し、『阿武隈乗員の奮闘を多とす 七生報国せよ』の発光信号をおくったという。本海戦で「潮」乗組員5名が戦死、8名が重軽、艦の被害は限定的だった。10月27日、第十六戦隊(鬼怒、浦波)救援にむかった「不知火」が撃沈される。レイテ沖海戦で志摩艦隊は「阿武隈」「若葉」「不知火」を喪失した。 詳細は「多号作戦」を参照 日本海軍はレイテ湾海戦で大損害を受けたが、日本軍は戦局有利とみて陸軍兵力をルソン島からレイテ島へ移動することにした(多号作戦)。第五艦隊(志摩艦隊)や第二艦隊(栗田艦隊)の残存駆逐艦もこの任務に投入される。10月31日から11月1日にかけての第二次作戦(第二次輸送部隊 指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、沖波、曙、潮、初春、初霜》、海防艦4隻、輸送船4隻)に参加、輸送船「能登丸」が沈没したが、輸送作戦は成功した。本作戦中の11月5日、マニラ湾大空襲により第五艦隊旗艦の重巡「那智」が沈没。「那智」救援中の「曙」も大破炎上し、「霞、初春、初霜、潮」は救援活動に従事。「潮」「霞」は「曙」の消火活動を実施したのち、「潮」は「曙」を浅瀬へ曳航し擱座させた。11月8日から9日にかけて、第四次作戦(指揮官木村一水戦司令官:警戒隊《霞、秋霜、潮、朝霜、長波、若月》、海防艦4隻、輸送船3隻)に参加。空襲で輸送船2隻(高津丸、香椎丸)・海防艦1隻を撃沈され、また揚陸地点での混乱により重火器や弾薬を一部揚陸したにとどまった。帰路についた第四次輸送部隊は、オルモック湾へむかう第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官:旗艦「島風」)と合同。第四次輸送隊の「若月」「長波」「朝霜」と、第三次輸送隊の「初春」「竹」を入れ替えた。「霞」「秋霜」「潮」「初春」「竹」は無事にマニラ湾へ帰投。11月11日、第三次輸送部隊は米軍機のべ347機に襲撃され、早川司令官は戦死、駆逐艦4隻(島風、長波、若月、浜波)・掃海艇1隻・輸送船4隻も全滅。生還したのは「朝霜」だけだった。 11月13日、マニラ湾は再び空襲をうけ「潮」は中破、ほかに軽巡「木曾」、駆逐艦4隻(曙、沖波、秋霜、初春)は沈没もしくは大破着底状態となる。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)はマニラを出港した。11月15日、解隊された第18駆逐隊より満潮型駆逐艦「霞」が第七駆逐隊に編入され、同隊は2隻編制(潮、霞)となった。 12月上旬、シンガポールで応急修理を完了。「潮」は重巡「妙高」(レイテ沖海戦で被雷、大破)を護衛し、内地に向け出発するが、12月13日夜にマレー半島北東タイランド湾にて米潜水艦「バーゴールと遭遇する。魚雷1本が命中した「妙高」は大破したが、主砲の反撃により「バーゴール」も大破。「潮」は損傷した「バーゴール」を追跡せず、「バーゴール」は僚艦「アングラー」に護衛されて生還した。先の空襲による損傷で一軸推進状態であり「妙高」の曳航はできない「潮」は船団護衛を命じられた。12月16日、「潮」はベトナムのサンジャックに到着。17日、「潮」はサンジャックを出港し、カムラン湾にて停泊中だったヒ82船団に合流した。 19日、ヒ82船団はカムラン湾を出港し、ベトナム沿岸を北上した。12月21日の朝、船団は米潜フラッシャーに発見される。フラッシャーは船団を追跡。その後フラッシャーは徐々に護衛の薄い方向に回りこんで攻撃態勢に入る。同日、「第19号海防艦」がシンガポールに向かう特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船、10,020トン)の護衛のため船団から分離し、反転してカムラン湾に向かう。翌22日午前5時頃、船団を護衛する海防艦「択捉」、「昭南」、「久米」、「第9号海防艦」と「潮」の5隻が船団の近くから離れてしまい、船団は一時的に護衛なしの状態となる。フラッシャーはこの好機を逃さず、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯15度02分 東経109度08分 / 北緯15.033度 東経109.133度 / 15.033; 109.133の地点で攻撃を開始した。5時50分、フラッシャーは艦尾発射管から魚雷を4本発射。タンカー「音羽山丸」(三井船舶、9,204トン)の船尾と中央部に魚雷が1本ずつ命中する。「音羽山丸」は航空機用ガソリン17,000トンを積んでおり、数百メートルの火柱を上げて炎上しながら、左舷に倒れて船尾から沈没していった。直後の5時51分には2TL型戦時標準タンカー「ありた丸」(石原汽船、10,238トン)の左舷油槽に魚雷が1本命中。ありた丸も搭載していた航空機用ガソリン16,000トンが誘爆。火達磨となって6時22分に沈没していった。ありた丸では船体が激しく炎上したこと、燃えるガソリンが海上に漏れたことから脱出は困難を極め、乗船していた船長以下船員57名、船砲隊員56名全員が戦死した。6時30分ごろには、フラッシャーは特設運送船(給油船)「御室山丸」(三井船舶、9,204トン)に対して魚雷を4本発射し、「御室山丸」の船尾機関室前部に魚雷1本が命中。重油16,000トンを積んでいた「御室山丸」は黒煙を上げながら沈没した。日本側は機雷敷設区域に入り込んだと考えたため、フラッシャーへの反撃を行わなかった。24日0900、船団は高雄に到着。ここで1TL型戦時標準タンカー「橋立丸」(日本水産、10,021トン)が、積んでいた航空機用ガソリン17,000トンを台湾の守備隊用に回すことになったため船団から分離。翌25日、航空機用ガソリン8,800トン、錫2,000トン、生ゴム1,000トンを積んだ逓信省標準TM型タンカー「ぱれんばん丸」(三菱汽船、5,237トン)のみとなった船団を護衛して高雄を出港。26日、船団は基隆に寄港。同地で「第9号海防艦」が船団から分離し、海防艦「笠戸」が船団に加入する。同日に基隆を出港した船団は中国沿岸を北上し、舟山に寄港。1945年1月1日午前9時、船団は舟山を出港し、3日に泗礁山泊地に到着。4日午前8時半、船団は泗礁山泊地を出港し、9日午後6時4分に六連に到着した。「潮」はその後横須賀港に帰投し、主機損傷のためそのまま係留される。この間、第一水雷戦隊の解隊にともない、第七駆逐隊は第二水雷戦隊に編入されていた。 1945年(昭和20年)1月25日、姉妹艦「響」の編入により、第七駆逐隊は3隻編制(霞、潮、響)となる。3月10日附で「霞」は第二十一駆逐隊に編入され、第七駆逐隊は2隻(潮、響)に減少した。菊水作戦直前の第二水雷戦隊は、司令官古村啓蔵少将:旗艦「矢矧」、第七駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)、第四十一駆逐隊(冬月、涼月)という編制だった。4月7日の坊ノ岬沖海戦で、かつて「潮」が護衛した戦艦「大和」が沈没、第二水雷戦隊も「矢矧」「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」を喪失し「涼月」が大破して、壊滅状態になる。4月20日、第二水雷戦隊は解隊され、第七駆逐隊、第十七駆逐隊、第四十一駆逐隊は第三十一戦隊に編入される。5月5日、第七駆逐隊は解隊され、「響」は警備駆逐艦に指定されたのち、舞鶴へ回航された。6月10日附で「潮」は第四予備駆逐艦に指定される。行動不能の状態で8月15日(終戦の日)を迎えた。9月に除籍となり、1948年(昭和23年)に解体された。
※この「太平洋戦争終盤の戦い」の解説は、「潮 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「太平洋戦争終盤の戦い」を含む「潮 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「潮 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 太平洋戦争終盤の戦いのページへのリンク