太平洋戦争終盤の戦いとは? わかりやすく解説

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太平洋戦争終盤の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)

野分 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説

1944年昭和19年1月4日重巡洋艦愛宕、4駆2隻(野分舞風)は横須賀出港し9日トラック泊地に着く。1月15日附で2隻(舞風野分)は南東方面部隊編入されラバウル方面輸送任務従事した2月12日トラック泊地帰投。だが、連合艦隊司令部トラック泊地空襲される事を予測し2月10日時点戦艦武蔵以下主力艦艇を内地もしくはパラオ退避させていた。2月15日、第4駆逐隊3番艦の山雲輸送船浅香丸を護衛してトラック泊地出発した。しかし2月16日深夜本土修理のためトラック泊地出港した第十戦隊旗艦阿賀野が米潜水艦雷撃沈没してしまう。トラック泊地有力なアメリカ軍機動部隊接近しつつあり、米潜水艦その先であった詳細は「トラック島空襲」を参照 1944年昭和19年2月15日山雲(第4駆逐隊)は輸送船浅香丸を護衛してトラック出港サイパン向かった16日野分は「4215船団」の一艦として第4駆逐隊僚艦舞風と共に巡洋艦香取特設巡洋艦赤城丸護衛しトラック諸島から内地帰還する予定だった。だが予定1日遅れ、乗員上陸許可出たり艦上映画上映ドイツ映画荒鷲」)がなされるなど、楽観的気運漂っていた。2月17日午前4時30分に出港したが、午前5時よりトラック島空襲遭遇した第27駆逐隊時雨春雨)は北水道通過し空襲損傷しつつも脱出成功した。だが第4215船団逃げきれず、北水道通過後にアメリカ軍機に捕捉された。空襲その後水上艦砲撃により3隻(香取舞風赤城丸)は撃沈され、舞風と共に磯久第4駆逐隊司令戦死した野分12時16分にレイモンド・スプールアンス司令官指揮するアイオワ級戦艦2隻(ニュージャージーアイオワ)、重巡洋艦ミネアポリスニューオーリンズ確認し12時51分にニュージャージー砲撃受けた。40cm砲弾3発が右90300m落着100mもの水柱あがった野分36ノット回避行動行いながらニュージャージー斉射振りきって脱出した一連の戦闘野分戦死者1名、重傷者3名を出した魚雷発射するチャンス全くなかったという。なお阿賀野救援向かっていた那珂トラック泊地水道アメリカ軍機の反復攻撃を受け、14時すぎに沈没したサイパン向かった野分山雲合流した後、2月24日横須賀港帰港した詳細は「松輸送」を参照 横須賀帰投後の野分第十一水戦隊指揮下に入った第十一水戦隊司令官高間少将座乗軽巡洋艦龍田以下、護衛艦9隻(駆逐艦野分朝風夕凪卯月》、海防艦平戸測天巨濟》、20号掃海艇》)をもって東松2号船団加入船舶12隻)を護衛、サイパン・グアム方面への船団護衛任務に就く。3月12日船団及び護衛艦隊木更津沖を出撃した。3月13日未明旗艦龍田および輸送船国陽丸が米潜水艦サンドランス雷撃により撃沈された(国陽丸沈没3時29分、龍田沈没15時36分)。国陽丸の運航指揮官近野信雄大佐戦死高間司令官龍田より野分移乗し野分護衛艦隊旗艦とした。龍田生存者平戸及び駆逐艦玉波分乗して横須賀帰投軽巡洋艦夕張龍田救援任務中止して帰投した。3月19日野分以下輸送船団高岡丸は途中分離パガン島行き)はサイパン到着した。別方面に向かう輸送船団テニアン行き巨濟柳河丸》、トラック行き対馬丸あとらんちっく丸、卯月夕凪》、エンダービー諸島行き第一眞盛丸、測天》)は3月20日東松2号船団から除かれ第二海上護衛隊指揮下に入って別行動をとる。3月23日復航船団護衛艦7隻《野分旗艦〕、朝風満珠巨濟第17号駆潜艇31号、32号》、加入船舶14隻)はサイパン出港して内地へ向かう。途中宗谷機関故障脱落した4月1日護衛艦隊横須賀到着して輸送任務終了した野分船団護衛を行う間、第4駆逐隊変化があった。3月25日高橋四郎大佐が第4駆逐隊司令として着任し山雲司令艦とした。3月31日駆逐艦満潮が第4駆逐隊編入された。4月7日野分第十一水戦隊旗艦任務解かれた。4月10日、第4駆逐隊司令駆逐艦山雲から満潮変更となる。4月下旬、同隊は瀬戸内海空母飛鷹着艦訓練同行した5月12日駆逐艦7隻(夕雲型駆逐艦秋霜早霜玉波》、第27駆逐隊時雨》、第4駆逐隊満潮野分山雲》)は大和型戦艦2番武蔵空母6隻(第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳》、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳》)を護衛して佐伯出撃し、タウイタウイに向かう。5月16日同地到着以降対潜哨戒航空戦隊の訓練警戒等に従事した6月10日より第4駆逐隊渾作戦参加したソロンバチャン泊地集結した艦隊は、攻撃部隊第一戦隊《大和、武蔵》、第五戦隊妙高羽黒》、軽巡能代》、駆逐艦沖波島風朝雲》)、輸送部隊青葉鬼怒野分満潮山雲敷波浦波津軽厳島、第36号駆潜艇、第127輸送艦)、補給部隊(第2永洋丸、第37駆潜艇、第30号掃海艇)という規模であった。だが、アメリカ軍サイパン来襲にともない渾作戦中止艦隊北上し小沢機動部隊本隊合流6月18日-20日マリアナ沖海戦参加した野分機動部隊乙部隊(指揮官城島高次少将第二航空戦隊隼鷹飛鷹龍鳳》、戦艦長門》、重巡最上》、第4駆逐隊満潮野分山雲》、第27駆逐隊時雨五月雨》、第二駆逐隊秋霜早霜》、第17駆逐隊浜風》)に所属6月19日野分空母瑞鶴搭乗員2名を救助20日には空母隼鷹搭乗員3名を救助したマリアナ沖海戦日本海軍主力空母3隻(大鳳翔鶴飛鷹)等を撃沈されて大敗した。4駆2隻(野分山雲)は沖縄中城湾満潮合同し船団護衛行いつつダバオ向かった7月1日、第4駆逐隊満潮野分山雲)は戦艦扶桑護衛してフィリピンミンダナオ島のダバオ出発2日から7日までボルネオ島タラカン滞在したのち、8日タラカン発、14日高知県宿毛湾到着15日横須賀帰投この間7月10日、第4駆逐隊駆逐艦朝雲編入され定数4隻(野分満潮山雲朝雲)を回復した野分母港整備修理おこなった詳細は「スカベンジャー作戦」を参照 7月30日空母瑞鳳駆逐艦4隻(第61駆逐隊初月秋月》、第4駆逐隊野分山雲》)は小笠原諸島硫黄島方面への輸送作戦護衛任務従事する輸送船団南方諸島硫黄島)への緊急増任務背負っていた。8月2日瑞鳳護衛任務終えて横須賀着、駆逐隊司令艦を満潮変更したこのあと輸送船団アメリカ軍機動部隊捕捉され松型駆逐艦1番艦以下大損害を受けている。第4駆逐隊輸送船帝洋丸を護衛して佐世保移動後に戦艦榛名合同8月15日佐世保出港して21日シンガポール到着する以後リンガ泊地訓練従事した

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太平洋戦争終盤の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 17:19 UTC 版)

浜風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説

1944年昭和19年2月1日リンガ泊地進出し訓練参加3月サイパンタラカンへの船団護衛6月中旬マリアナ沖海戦参加6月14日駆逐艦浜風」、「時雨」、「白露」、「響」、「秋霜」で燃料補給部隊護衛中、「白露」がタンカー「清洋丸」と衝突して爆沈し、「浜風」は「白露乗組員救助行った。19-20日、「浜風」と「時雨」は燃料補給部隊から分離し小沢機動部隊乙部隊(第二航空戦隊空母隼鷹飛鷹龍鳳戦艦長門等)に所属して米軍機交戦する20日空母飛鷹」が米軍機攻撃撃沈され、乗組員救助した戦闘終了後燃料不足のため駆逐艦満潮」、「秋霜」、「早霜」、「時雨と共に艦隊主力から分離し先行して帰投した。 7月リンガ泊地再度進出9月下旬、第17駆逐隊浦風雪風浜風磯風)は第二戦隊(司令官西村祥治少将)の戦艦扶桑」、「山城」のリンガ泊地進出護衛する10月下旬、第17駆逐隊栗田艦隊所属しレイテ沖海戦参加した。「浜風」は第三戦戦艦金剛」を中心とした輪形陣左側配置され10月24日シブヤン海海戦を戦う。15時5分、至近弾と小型爆弾2発命中により第二缶室で火災発生15時26鎮火成功したが、最大発揮速力28ノットとなり、戦死1名、重軽傷16名を出す。同じく損傷した駆逐艦清霜と共に栗田長官から大破した戦艦武蔵」を護衛するよう命ぜられる。「武蔵」の沈没1935分に目撃した武蔵生存者救助従事した浜風」は約800名を救助した。「浜風」と「清霜」は合計1423名(重傷58名)を乗艦させ、マニラ避退した。 11月16日に第17駆逐隊戦艦大和」、「長門」、「金剛」と軽巡洋艦矢矧」を護衛してブルネイ出発し日本本土へ向かう。北上中の11月21日戦艦金剛」と第17駆逐隊司令駆逐艦浦風」を米潜水艦シーライオン」の襲撃失った。「浜風」と「磯風」は「金剛生存者237名を救助した。「浜風」は「浦風」の沈没により、第17駆逐隊司令となったその後長門」を護衛して横須賀港入港折り返して28日空母信濃」を護衛して横須賀出航し、呉に向かう。29日、米潜水艦アーチャーフィッシュ」の雷撃により「信濃」が沈没。「浜風」、「雪風」、「磯風」は「信濃生存者1400名を救助した11月30日、呉に到着した12月29日門司出港、第17駆逐隊雪風浜風磯風)及び「時雨」は、高雄経由シンガポール行きヒ87船団および同行する空母龍鳳」の護衛行った30日、「雪風」は機関故障により呉に戻り、「浜風」は第17駆逐隊司令となった1945年昭和20年1月7日、「龍鳳」を無事に台湾基隆市送り届けた。翌8日台湾中港泊地濃霧のなか1万トンタンカー海邦丸」と衝突双方損傷軽微だったが、船団翌日以降艦載機襲撃壊滅した。この損傷により司令艦は「磯風」に変更となった。「浜風」は船団及び「磯風」と分離して馬公入港する修理にあたり1月25日呉に帰港した1945年昭和20年3月26日天一号作戦発動されると、「浜風」は戦艦大和」や第二水雷戦隊各艦と共に呉を出航し宇部沖で待機した4月6日徳山沖に待機していた「大和」と合流15時16分、出航した4月7日戦艦大和」および第二水雷戦隊旗艦矢矧、第17駆逐隊磯風浜風雪風》、第21駆逐隊朝霜初霜》、第41駆逐隊冬月涼月》)は坊ノ岬沖海戦参加する第一次空襲最中にあたる12時45分船体後部爆弾命中し航行不能その後魚雷右舷船体中央部命中し、艦は前後分断され12時48分に沈没した100名が戦死艦長以下256名が救助された。(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3047東経12808分 / 北緯30.783度 東経128.133度 / 30.783; 128.133)。「浜風」の轟沈海戦参加した多く海戦参加将兵目撃され、彼らの手記で取り上げられている。吉田満戦艦大和乗組員)は、浜風先任将校証言を以下のように記述している。 のち同艦先任将校副艦長当る)の言によれば轟沈を喫せし契機は、微妙な回避失敗にあるものの如し中略)この日、米機第一編隊雲間より殺到するや、何はなし威圧せらるる如き息苦しさ浜風艦内に漂う 南方水域広く転戦する同艦にして、かかる例は全く初めてなり 第一魚雷投下水煙上げて後方より進みきたるや、その瞬時、一秒にも満たざる間、気を呑まれ徒らに傍観し艦長への連絡怠りしためか、僅かにしてかわし得ず、艦尾当てて舵を吹き飛ばす忽ち相次ぐ爆弾行動不如意の同艦に集中して水柱火柱包まれたりという — 吉田満戦艦 大和 62-63ページ 6月10日駆逐艦浜風濱風)」は第17駆逐隊帝国駆逐艦籍、不知火型駆逐艦それぞれから除籍された。

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太平洋戦争終盤の戦い

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潮 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争終盤の戦い」の解説

1943年昭和18年12月中旬から下旬にかけて、駆逐艦3隻(第二十四駆逐隊海風涼風》、潮)は輸送船4隻(日蘭丸、良洋丸、日美丸、但馬丸)の釜山からトラック泊地進出護衛する12月26日夕刻トラック泊地南水道着翌朝到着28日附で3隻(海風涼風、潮)は内南洋部隊編入され海上機動第1旅団マーシャル諸島進出護衛することになった12月30日、2隻(海風、潮)は第一分団但馬丸、日美丸)を護衛してトラック泊地出発クェゼリン環礁へ向かう。1944年1月中旬までブラウン環礁ロイ=ナムル島クェゼリン環礁各地航海した。なおマーシャル諸島配備され各部隊は、1月下旬2月上旬クェゼリンの戦いおよびエニウェトクの戦いによって全滅した1944年昭和19年1月上旬第七駆逐隊(漣、曙、潮)は第五艦隊第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)に転籍1月12日、7駆の中で1隻だけ内南洋部隊編入され輸送任務従事中の「潮」は、マロエラップ環礁タロア島米軍B-25中爆5機の空襲を受ける。小型爆弾2発が命中戦死4名重軽傷19名、至近弾による破孔により最大発揮速力20ノットとなり、クェゼリン環礁避退した。 1月14日姉妹艦「漣」は米潜水艦アルバコア」の雷撃撃沈され、第七駆逐隊初雪型駆逐艦2隻(潮、曙)となった1月18日、丁船団第一分団および護衛2隻(海風、潮)はトラック島帰着。またポナペ島方面輸送担当していた「涼風」もトラック泊地帰着した同日附で第七駆逐隊(潮、曙)は北方部隊復帰下令される。1月20日早朝給糧艦伊良湖駆逐艦皐月と共に内地へ向けトラック泊地出発するが、アメリカ潜水艦シードラゴン)の雷撃伊良湖損傷浸水したこのため潮はトラック泊地北方遭難現場急行駆逐艦涼風重巡洋艦鳥海と共に伊良湖救援して21日トラック泊地戻った第七駆逐隊が2隻となってからの駆逐隊最初の任務は、大破した空母雲鷹」の護衛任務だった。1月26日サイパン到着して雲鷹」および駆逐艦2隻(皐月初霜)と合流途中合流した重巡洋艦高雄」と協力し燃料不足悩まされつつ、「雲鷹」を横須賀まで送り届けた2月13日より「潮」「曙」は休養修理整備をおこなう。3月中は入渠修理出撃準備費やした4月6日第七駆逐隊(潮、曙)は横須賀出発して大湊回航11日到着以後北東方面艦隊指揮下で北方海域行動した5月下旬、「潮」「曙」は大湊工作部魚雷発射管改造工事実施九三式魚雷(酸素魚雷)を発射可能となった6月中旬マリアナ方面戦いはじまったことに伴い扶桑型戦艦山城」と第五艦隊を、強行輸送をかねてサイパン島突入させる計画浮上する(「イ号作戦)。第五艦隊那智第一水雷戦隊等)も「山城と共にサイパン島の戦い参加するため横須賀回航準備おこなったマリアナ沖海戦惨敗などによりサイパン奪還作戦放棄され作戦中止された。6月30日、「薄雲」「潮」「曙」「帝洋丸」は大湊に戻る。 7月5日第七駆逐隊(曙、潮)と第十駆逐隊薄雲」は輸送船4隻を護衛して小樽港出発千島列島方面航行中7月7日、「薄雲」が米潜水艦スケート」に撃沈される。7月9日護衛中の「太平丸」を米潜水艦サンフィッシュ」に撃沈される。7月末、絶対国防圏崩壊にともない南方方面戦力拡充するため、第五艦隊北方任務解かれ横須賀移動した8月上旬第二邀撃部隊編入第七駆逐隊(曙、潮)は呉に回航されたのち、三式一号電波探信儀三型13号電探)を装備した8月24-25日、第一水雷戦隊阿武隈不知火、曙、潮)は瀬戸内海大津島訓練実施。「潮」が発射した魚雷が「曙」右舷中部命中する騒動になった。「曙」の損傷軽度で、9月5日には「潮」と共に八島泊地移動した9月中、第一水雷戦隊各艦は各種訓練実施しつつ、航空部隊訓練にも協力する10月中旬台湾沖航空戦により大戦果を挙げた誤認した日本海軍は、志摩艦隊に『敵残存艦隊掃蕩』を下令する。空母17隻を擁する米軍機部隊第38任務部隊)はほぼ無傷であり(空母1小破重巡1・軽巡1大破)、志摩艦隊途中で追撃中止したため、難を逃れた詳細は「フィリピンの戦い (1944-1945年)」を参照 10月下旬レイテ沖海戦では、第五艦隊司令長官志摩清英中将指揮する第二遊撃部隊重巡2隻《那智足柄》、軽巡阿武隈》、第十駆逐隊不知火》、第七駆逐隊《潮、曙》、第二十一駆逐隊若葉初春初霜》)としてレイテ湾突入する計画であった。だが輸送任務のため、第二十一駆逐隊志摩艦隊本隊とは別行動をとり、10月24日空襲で「若葉」を喪失した10月25日午前3時志摩艦隊の一艦としてスリガオ海峡突入中の「潮」は、「那智」《志摩長官座乗》「足柄」「阿武隈」《木村司令官座乗》「不知火」「」の単縦陣左前嚮導艦右前嚮導艦は「曙」)として行動していた。悪天候のためスリガオ海峡地形確認できなかった「潮」は、不安を感じて反転し単縦陣最後尾の「後方につこうとした。この時、軽巡洋艦阿武隈」より誤射される。このあと志摩艦隊西村艦隊壊滅と、旗艦那智」の損傷(「最上」との衝突による)を受けて反転。「潮」は米軍魚雷艇雷撃大破した阿武隈救援のため、本隊から分離した米軍記録によれば米軍魚雷艇137号は「潮」に魚雷発射したものの、これが「阿武隈」に命中したという。この後第一水雷戦隊司令部司令官木村昌福少将)は「阿武隈」から駆逐艦」に移乗している。また「曙」は西村艦隊残存艦の重巡最上」の救援おもむき、同艦を雷撃処分したのち本隊追って避退した。 一方志摩艦隊本隊から取り残された「潮」「阿武隈」は、たびたび米軍機空襲を受ける。「潮」は対空戦闘による戦死者出しつつ「阿武隈」を護衛。「潮」「阿武隈」は25日2230分にミンダナオ島北西部ダピタン港に入泊して夜をあかし、10月26日午前6時出港コロンへ向かう。午前10時以降米軍爆撃機(B-24およびB-25)の空襲を受け、被弾した「阿武隈」の魚雷誘爆12時42分、ネグロス島南西で「阿武隈」は沈没する。「潮」は「阿武隈生存者救助したのち、カラミアン諸島コロン島コロン湾)に向け撤退した。「座乗木村司令官は、コロン湾到着した「潮」および阿武隈生存者対し、『阿武隈乗員奮闘を多とす 七生報国せよ』の発光信号おくったという。本海戦で「潮」乗組員5名が戦死、8名が重軽、艦の被害限定的だった。10月27日第十六戦隊鬼怒浦波救援むかった不知火」が撃沈される。レイテ沖海戦志摩艦隊は「阿武隈」「若葉」「不知火」を喪失した詳細は「多号作戦」を参照 日本海軍レイテ湾海戦大損害を受けたが、日本軍戦局有利とみて陸軍兵力ルソン島からレイテ島移動することにした(多号作戦)。第五艦隊志摩艦隊)や第二艦隊栗田艦隊)の残存駆逐艦もこの任務投入される10月31日から11月1日にかけての第二次作戦第二次輸送部隊 指揮官木村一水戦司令官警戒隊《沖波、曙、潮、初春初霜》、海防艦4隻、輸送船4隻)に参加輸送船能登丸」が沈没したが、輸送作戦成功した本作戦中11月5日マニラ湾大空襲により第五艦隊旗艦重巡那智」が沈没。「那智救援中の「曙」も大破炎上し、「初春初霜、潮」は救援活動従事。「潮」「」は「曙」の消火活動実施したのち、「潮」は「曙」を浅瀬曳航し擱座させた。11月8日から9日にかけて、第四次作戦指揮官木村一水戦司令官警戒隊《秋霜、潮、朝霜長波若月》、海防艦4隻、輸送船3隻)に参加空襲輸送船2隻(高津丸、香椎丸)・海防艦1隻を撃沈され、また揚陸地点での混乱により重火器弾薬一部揚陸したにとどまった帰路についた第四次輸送部隊は、オルモック湾へむかう第三次輸送部隊指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官旗艦島風」)と合同第四次輸送隊の「若月」「長波」「朝霜」と、第三次輸送隊の「初春」「竹」を入れ替えた。「」「秋霜」「潮」「初春」「竹」は無事にマニラ湾帰投11月11日第三次輸送部隊米軍機のべ347機に襲撃され早川司令官戦死駆逐艦4隻(島風長波若月、浜波)・掃海艇1隻・輸送船4隻も全滅生還したのは「朝霜」だけだった11月13日マニラ湾は再び空襲をうけ「潮」は中破、ほかに軽巡木曾」、駆逐艦4隻(曙、沖波秋霜初春)は沈没もしくは大破着底態となる。同日深夜残存艦艇初霜朝霜、潮《左舷一軸運転》、竹)はマニラ出港した11月15日解隊された第18駆逐隊より満潮駆逐艦」が第七駆逐隊編入され、同隊は2隻編制(潮、となった12月上旬シンガポール応急修理完了。「潮」は重巡妙高」(レイテ沖海戦被雷大破)を護衛し内地に向け出発するが、12月13日夜にマレー半島北東タイランド湾にて米潜水艦バーゴール遭遇する魚雷1本が命中した妙高」は大破したが、主砲反撃により「バーゴール」も大破。「潮」は損傷したバーゴール」を追跡せず、「バーゴール」は僚艦アングラー」に護衛され生還した先の空襲による損傷一軸推進状態であり「妙高」の曳航できない「潮」は船団護衛命じられた。12月16日、「潮」はベトナムサンジャック到着17日、「潮」はサンジャック出港しカムラン湾にて停泊中だったヒ82船団合流した19日、ヒ82船団カムラン湾出港しベトナム沿岸北上した12月21日の朝、船団は米潜フラッシャー発見されるフラッシャー船団追跡その後フラッシャー徐々に護衛の薄い方向回りこんで攻撃態勢に入る。同日、「第19号海防艦」がシンガポールに向かう特設運送船(給油船)日栄丸(日東汽船10,020トン)の護衛のため船団から分離し反転してカムラン湾に向かう。翌22日午前5時頃、船団護衛する海防艦択捉」、「昭南」、「久米」、「第9号海防艦」と「潮」の5隻が船団近くから離れてしまい、船団一時的に護衛なしの状態となる。フラッシャーはこの好機逃さず、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯15度02東経10908分 / 北緯15.033度 東経109.133度 / 15.033; 109.133の地点攻撃開始した。5時50分、フラッシャー艦尾発射管から魚雷を4本発射タンカー音羽山丸」(三井船舶、9,204トン)の船尾中央部魚雷が1本ずつ命中する。「音羽山丸」は航空機用ガソリン17,000トン積んでおり、数百メートル火柱上げて炎上しながら、左舷倒れて船尾から沈没していった。直後の5時51分には2TL型戦時標準タンカー「ありた丸」(石原汽船10,238トン)の左舷油槽魚雷が1本命中。ありた丸も搭載していた航空機用ガソリン16,000トン誘爆火達磨となって6時22分に沈没していった。ありた丸で船体激しく炎上したこと、燃えガソリン海上漏れたことから脱出は困難を極め乗船していた船長下船57名、船砲隊員56全員戦死した6時30分ごろには、フラッシャー特設運送船(給油船)「御室山丸」(三井船舶、9,204トンに対して魚雷を4本発射し、「御室山丸」の船尾機関室前部魚雷1本が命中重油16,000トン積んでいた「御室山丸」は黒煙上げながら沈没した日本側は機雷敷設区域入り込んだ考えたため、フラッシャーへの反撃を行わなかった。24日0900、船団高雄到着。ここで1TL型戦時標準タンカー橋立丸」(日本水産10,021トン)が、積んでいた航空機用ガソリン17,000トン台湾守備隊用に回すことになったため船団から分離。翌25日航空機用ガソリン8,800トン、錫2,000トン生ゴム1,000トン積んだ逓信省標準TM型タンカーぱれんばん丸」(三菱汽船、5,237トン)のみとなった船団護衛して高雄出港26日船団基隆寄港同地で「第9号海防艦」が船団から分離し海防艦笠戸」が船団加入する同日基隆出港した船団中国沿岸北上し舟山寄港1945年1月1日午前9時、船団舟山出港し3日に泗礁山泊地到着4日午前8時半船団は泗礁山泊地出港し9日午後6時4分に六連到着した。「潮」はその後横須賀港帰投し、主機損傷のためそのまま係留される。この間第一水雷戦隊解隊にともない第七駆逐隊第二水雷戦隊編入されていた。 1945年昭和20年1月25日姉妹艦「響」の編入により、第七駆逐隊は3隻編制、潮、響)となる。3月10日附で「」は第二十一駆逐隊編入され第七駆逐隊は2隻(潮、響)に減少した菊水作戦直前第二水雷戦隊は、司令官古村啓蔵少将旗艦矢矧」、第七駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊磯風浜風雪風)、第二十一駆逐隊朝霜初霜)、第四十一駆逐隊冬月涼月)という編制だった。4月7日坊ノ岬沖海戦で、かつて「潮」が護衛した戦艦大和」が沈没第二水雷戦隊も「矢矧」「磯風」「浜風」「朝霜」「」を喪失し涼月」が大破して壊滅状態になる。4月20日第二水雷戦隊解隊され、第七駆逐隊第十七駆逐隊第四十一駆逐隊第三十一戦隊編入される5月5日第七駆逐隊解隊され、「響」は警備駆逐艦指定されたのち、舞鶴回航された。6月10日附で「潮」は第四予備駆逐艦指定される行動不能の状態で8月15日終戦の日)を迎えた9月除籍となり、1948年昭和23年)に解体された。

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