第十戦隊旗艦
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「阿賀野 (軽巡洋艦)」の記事における「第十戦隊旗艦」の解説
1942年(昭和17年)2月15日、前年11月下旬まで古鷹型重巡洋艦1番艦古鷹艦長だった中川浩大佐は、阿賀野艤装員長に任命される。2月25日、佐世保海軍工廠に阿賀野艤装員事務所を設置する。本艦が竣工する頃、すでに太平洋戦争はターニングポイントと呼ばれるミッドウェー海戦を過ぎてガダルカナル島の戦いに突入しており、戦局は悪化しつつあった。10月31日、阿賀野は竣工して海軍に引き渡された。同時に、警備艦と定められる。中川艤装員長も阿賀野初代艦長となった。同日附で阿賀野艤装員事務所は撤去。 11月19日、阿賀野及び第17駆逐隊2小隊(浜風、磯風)はトラック進出を下令される。11月20日、「阿賀野」は第三艦隊第十戦隊に編入。12月1日、「阿賀野」はトラック泊地に進出した。同時に駆逐艦「照月」より第十戦隊旗艦を継承。だが軽巡洋艦が水雷戦隊を駆使しての戦闘はほとんど無かった。本艦型の設計技術会議に関与した宇垣纏連合艦隊参謀長も、『果たして現下の要求に堪えられるのか』と懸念を示している。 その頃の日本軍はニューギニア方面の作戦を進展させるため、ニューギニア島北岸のマダンとウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ(モロベ州州都)、サラモアに対する後方基地として強化することにした(「ム」号作戦)。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官はウエワク攻略部隊の上空警戒のため、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母《隼鷹》)と護衛部隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦3隻《磯風、浜風、村雨》)を派遣した。12月13日附で第二航空戦隊・第十戦隊各部隊は南東方面部隊に編入。ウェワク攻略部隊(駆逐艦《巻雲、夕雲、風雲》、輸送船《清澄丸》)は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊(軽巡《天龍》、駆逐艦《荒潮、涼風、磯波、電》、輸送船《愛国丸、護国丸》)は同日18時にラバウルを出撃した。母艦航空部隊(隼鷹、阿賀野、磯風、浜風、村雨)もトラック泊地を出撃、同部隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸に成功した。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、潜水艦アルバコアの雷撃で天龍を喪失した。12月20日、第二航空戦隊および第十戦隊各艦は前進部隊(指揮官近藤信竹中将)への復帰を下令された。 1943年(昭和18年)1月上旬、第十戦隊旗艦は駆逐艦秋月に変更された。1月19日、秋月は米潜水艦ソードフィッシュから雷撃された輸送船妙法丸の救援のために出動したが、アメリカの潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)から雷撃されて大破し、木村司令官も負傷した。木村少将の後任として、小柳冨次少将(当時第二水雷戦隊司令官)が第十戦隊司令官に任命される。 同年1月下旬〜2月上旬、ガダルカナル島からの撤退作戦(ケ号作戦)が実施された。これを支援すべく、前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)以下重巡洋艦4隻(愛宕、高雄、羽黒、妙高)、戦艦2隻(金剛、榛名)、軽巡3隻(長良、神通、阿賀野)、空母2隻(隼鷹、瑞鳳)、駆逐艦(朝雲、五月雨、時雨、陽炎、涼風、大波、初雪、敷波、嵐)、油槽船2隻(日本丸、建洋丸)という戦力が集結。前進部隊各部隊(本隊、警戒隊、航空部隊、補給部隊)は1月31日にトラック泊地を出撃。2月3日、第一次撤収作戦損傷艦の補充のため駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)は前進部隊からケ号作戦実施部隊にまわされ、ショートランド泊地へ向かう。その後も前進部隊や東方牽制隊はアメリカ軍機動部隊出現に備えて待機したが交戦の機会はなく、ケ号作戦成功と共に順次トラックへ帰投。その後、同地で待機した。5月上旬、第十戦隊(阿賀野、第16駆逐隊《雪風》、第10駆逐隊《夕雲、秋雲》)は第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)を護衛して内地へ帰投する。5月8日、日本本土へ帰投した。 阿賀野は6月3日から7月2日まで呉海軍工廠で入渠を含めた整備を行い、この時に21号電探を装備した。また13mm連装機銃2基を25mm連装機銃2基に交換、飛行甲板後端左右に25mm3連装機銃を1基ずつ増備し、25mm機銃は連装2基、3連装4基の計16挺となった。本艦修理中の6月21日附で、第十戦隊司令官は小柳冨次少将から大杉守一少将に交代した。 第八戦隊(「利根」、「筑摩)、第十戦隊(「阿賀野」、駆逐艦5隻)、「最上」、軽巡洋艦「大淀」、水上機母艦「日進」からなる第一部隊は陸軍南海第四守備隊の第一次進出部隊の輸送に従事し、空母「翔鶴」、「瑞鶴」などとともに7月10日に内海西部を発ち、7月15日にトラックに到着した。マーシャル方面へ進出予定であった南海第四守備隊は、連合国軍のレンドバ島などへの上陸によりソロモン方面へ転用されることとなり、第一部隊は7月19日にトラックを発し、7月21日にラバウルに到着。ラバウルから先は「日進」と駆逐艦5隻によりブインとブカ島への輸送が行われ、第十戦隊指揮官は旗艦を駆逐艦「萩風」に移してこれを指揮した。この際、「日進」が撃沈されている。第四駆逐隊(駆逐艦2隻)以外の第一部隊は7月24日にラバウルを発し、7月26日にトラックに戻った。 8月6日、阿賀野艦長は中川浩大佐から松原博大佐に交代した。
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