昭和17年の戦い
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「風雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和17年の戦い」の解説
風雲竣工直前の3月14日、日本海軍は夕雲型1番艦夕雲と夕雲型2番艦巻雲(3月14日竣工)により第10駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐、前職第8駆逐隊司令)を編制した。風雲は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を風雲に指定した。4月15日、陽炎型駆逐艦19番艦の秋雲が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった。 秋雲編入直前の4月10日、戦隊改編により南雲機動部隊(指揮官南雲忠一中将・海軍兵学校36期、第一航空艦隊司令長官)の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官木村進少将・海軍兵学校40期)が編制され、第10駆逐隊も第十戦隊に所属した。これまでの第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将・海兵41期)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡長良以下、第10駆逐隊〔司令阿部俊雄大佐 第1小隊:(1)風雲、(2)夕雲、第2小隊:(3)巻雲、(4)秋雲〕、第17駆逐隊〔第1小隊:(1)谷風、(2)浦風、第2小隊:(3)浜風、(4)磯風〕、第7駆逐隊〔第1小隊:(1)潮、(2)漣、第2小隊:(3)曙〕が所属していた。だが第7駆逐隊は機動部隊から外されて北方部隊に所属しており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令有賀幸作大佐:第1小隊〈嵐、野分〉、第2小隊〈萩風、舞風〉)、燃料補給部隊という編成である。 4月18日のドーリットル空襲時、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に編入され、重巡洋艦戦隊や空母祥鳳等とともに米軍機動部隊追撃のため横須賀を出動した。だが接敵できず、前進部隊各部隊・各艦は4月22日から23日にかけて横須賀に帰投した。 第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、まず主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がアメリカ軍機動部隊艦載機SBD急降下爆撃機ドーントレスの空襲を受け、被弾炎上した。戦闘詳報では、赤城に座乗の南雲長官・草鹿龍之介参謀長・源田実参謀、淵田美津雄赤城飛行長等の司令部人員を救助するため「7時45分に野分が赤城に接近した」と記録している。『戦史叢書、第43巻ミッドウェー海戦』によれば、南雲司令部は野分に移乗したのち長良(第十戦隊旗艦)に移動して0830に将旗を掲げたとする。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、南雲司令部は駆逐艦を経由せず、装載艇で直接長良に移動している。旗艦変更にあたり、草鹿は「最初は附近の駆逐艦にもと思ったのであるが、折よく安否を気づかって接近してきた第十戦隊旗艦「長良」に移乗することにした。」と回想している。機動部隊側の記録や回想に対し、吉田正義(当時、風雲駆逐艦長)は「南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、風雲に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦の長良へ移動した」と回想している。 空母3隻被弾炎上後、第10駆逐隊は第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)の空母飛龍の支援に従事した。最終的に飛龍も被弾炎上し、風雲と谷風は飛龍の左舷に横付けして消火活動に協力した。長益(当時、飛龍航海長)は、消火作業をおこなった駆逐艦の艦名について、「風雲、巻雲」と回想している。飛龍の周囲には駆逐艦4隻(艦名不詳)がいて、消火に協力したという。また飛龍の御真影と負傷者の一部は、風雲に収容された。鎮火の見込みが立ったため加来止男飛龍艦長は風雲に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという。小林勇一(当時、飛龍戦闘機整備分隊長)は「やれもしない水雷戦隊の夜襲などと言わず、あの時そのまま駆逐艦に消火を続けさせ、母艦を徹底的に冷やしたら、『飛竜』を沈めずに持って帰れたのに」と回想している。草鹿参謀長は「冷静に考えれば、「飛龍」の被爆と同時に、艦を救い人を救って、速やかに引きあげるべきであった。そのときも、そう思わぬでもなかったが、戦が不利だからといって、速やかに引きあげるということは、なんとなく軍人としてできにくいことであった。」と回想している。 山口司令官と加来艦長は総員退去を下令、風雲と巻雲は飛龍生存者を収容した。飛龍接舷時、過失により風雲・飛龍の接触事故がおこり、風雲はマストや測距義に損傷を受けている。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した。風雲のカッターボートが飛龍右舷にいたところ上から拳銃が落ちてきたため、飛龍副長の鹿江隆大佐(海兵48期)は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという。なお、飛龍は駆逐艦巻雲によって雷撃処分されたが、すぐには沈没しなかった。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、駆逐艦谷風(第17駆逐隊)が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した。沈没寸前に飛龍から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された。吉田(風雲駆逐艦長)は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している。第十駆逐隊は6月13日に呉へ帰投した。 7月14日、第一航空艦隊が解隊されて第三艦隊が編制され、引き続き南雲忠一中将が第三艦隊司令長官、草鹿龍之介少将が同艦隊参謀長を務めた。この再編にともない第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下駆逐艦16隻(第4駆逐隊〈嵐、野分、萩風、舞風〉、第10駆逐隊〈秋雲、夕雲、巻雲、風雲〉、第16駆逐隊〈雪風、時津風、天津風、初風〉、第17駆逐隊〈谷風、浦風、浜風、磯風〉)という戦力を揃えた。
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