祥鳳
祥鳳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:41 UTC 版)
剣埼は1940年(昭和15年)11月15日から計画通りに航空母艦へ改造されたが、不調のディーゼル機関をタービンと交換した。この工事に約1年掛かってしまった。不調のディーゼルエンジンを陽炎型駆逐艦の艦本式ボイラーと艦本式タービンに換装したのである。 1941年(昭和16年)4月17日、城島大佐は翔鶴初代艦長に任命され、引き続き2隻(翔鶴、剣埼)艦長を兼務することになった。8月8日、城島大佐(翔鶴艦長、剣埼艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、戦艦山城の小畑長左衛門艦長が剣埼艦長と山城艦長を兼務することになった。10月1日、小畑艦長(山城艦長、剣埼艦長)は兼務を解かれ、剣埼艦長は元山海軍航空隊司令伊沢石之介大佐となった。11月1日、横須賀鎮守府特別役務艦に定められる。12月20日、ほぼ改装が終わった剣埼(祥鳳)と交替で、横須賀で大鯨の空母改造がはじまり、それにともない同艦が予備艦となった。12月22日、改造完成により剣埼から祥鳳へと改名された。同日付で航空母艦に類別。横須賀鎮守府籍。伊沢大佐(剣埼艦長)以下、剣埼乗組員は祥鳳乗組員となった。また、艦艇類別等級別表の潜水母艦欄から剣埼型が削除された。 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が勃発した(剣埼は改装工事中)。12月22日、本艦は完成および改名と共に第一航空艦隊隷下の第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。第四航空戦隊から連合艦隊付属に転出した春日丸級特設空母1番艦春日丸(大鷹)の代艦であった。司令官角田少将は空母龍驤を旗艦として南方作戦・蘭印作戦に従事しており、空母として竣工したばかりの祥鳳は内地で訓練に従事した。なお、祥鳳への改名に際し空母鳳翔または空母翔鳳とする誤記が多発、郵便物の誤配に悩まされたという。 祥鳳の航空母艦としての最初の任務は、ニューブリテン島ラバウルに配備される零式艦上戦闘機(以下『零戦』)の輸送任務であった。1942年(昭和17年)2月1日付で、本艦は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に編入された。 2月4日、祥鳳は駆逐艦帆風と共に横須賀港を出港した。当時の祥鳳搭載機は九六式艦上戦闘機4 (補用2) 機、九七式艦上攻撃機9 (補用4) 機だった。出港時の収容機は、九六艦戦6(内3機解体)、九七艦攻12(甲板上2機)、零戦9機であったという。2月6日、対潜哨戒中に九六艦戦が着艦に失敗、パイロットは帆風に収容されるも戦死した。2月9日、第四艦隊(司令長官井上成美中将〈南洋部隊指揮官〉、旗艦鹿島)の根拠地トラック泊地に到着した。 2月13日に祥鳳はトラック泊地を出発、15日ラバウル北方150浬で飛行機を発艦させ2月16日にトラックへ戻った。祥鳳によりラバウルに零戦7機が輸送された。航海中の15日、第四艦隊は本艦と帆風に対し、パラオでの基礎訓練と同基地配備の九六艦戦12機をトラック泊地へ輸送するよう命じた。2月18日、祥鳳隊(祥鳳、帆風)はトラックを出港するが、暗号解読により待ち伏せていたアメリカの潜水艦グレイリング (USS Grayling, SS-209) から狙われた。獲物まで400-500mまで迫ったもののグレイリングは攻撃に失敗し、祥鳳は何も知らぬまま航海を続けた。 2月20日、ウィルソン・ブラウン中将が率いる第11任務部隊(大型空母レキシントン基幹)がラバウル東方海面に出現したため、井上中将は練習巡洋艦(旗艦)鹿島、敷設艦沖島を率いてトラックより出撃、さらに第六戦隊(司令官五藤存知少将:青葉、加古、衣笠、古鷹)と祥鳳にも迎撃を命じた。同日正午、祥鳳はトラックに向け反転。21日に第六戦隊(五藤少将)の指揮下に入る。レキシントン追撃のための措置だったが、本格的な交戦に至る前にラバウル航空隊の一式陸上攻撃機に迎撃され、第11任務部隊は撤退した(ニューギニア沖海戦)。第四艦隊の追撃作戦は中止され、祥鳳はパラオへ向かった。仮にこの時点で大型空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) と対決した場合、珊瑚海海戦と同じ結末を辿ったと思われる。 2月24日、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦上機がウェーク島を空襲した。パラオへ向かっていた祥鳳は再び反転してトラック諸島近海に戻った。2月26日、トラックに到着する。以後は同地で訓練に従事した。3月上旬にもラバウル方面への航空機輸送任務を実施、零式艦上戦闘機20機がラバウルに進出した。
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