翔鶴艦長とは? わかりやすく解説

翔鶴艦長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:53 UTC 版)

有馬正文」の記事における「翔鶴艦長」の解説

1942年昭和17年5月25日翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴艦長航海中は艦橋公室オフィス使わず常に艦橋にあって食事畳一ほどの艦長休憩室とっていた。兵や部下に対してお疲れ様です」「お早う御座います」と丁寧な言葉遣い接し未だ帰還しない艦載機為に艦の危険を顧みずサーチライト照射命じ自らも双眼鏡抱えて艦橋離れなかった、戦死した部下家族欠かさず自筆の手紙を書き送っていたという。また短期現役士官永田恒(当時翔鶴主計長)を艦長室招き菓子交えながら雑談興じたことがある。この時、有馬中尉時代共産主義にかぶれ海軍辞めようとかと悩んだこと、その後は「日本人に赤(共産主義)は合わない自由主義の方が良い」と判断変えたと話す。さらに海軍軍人として考え語った7月14日第三艦隊新編により、「翔鶴」は第三艦隊旗艦(兼第一航空戦隊旗艦)となる。第2次ソロモン海戦参加南太平洋海戦参加南太平洋海戦ではSBDドーントレス急降下爆撃機攻撃により爆弾4発が命中。「翔鶴」は大破した有馬艦長第三艦隊司令長官南雲忠一中将に「本艦高速動けます。このまま進んでください翔鶴このまま進んで敵の爆弾吸収できたら、それだけ味方が助かるではありませんか。どうかこのまま進ませてください。」と「翔鶴」を囮にして敵機引き寄せ、「瑞鶴」を中心とする残存兵力米空母壊滅させよう進言しているが、草鹿龍之介参謀長に「飛行甲板大破した空母戦えるのか」と一喝され却下された。 1943年2月16日海軍省航空本部教育部長。軍令部作戦部中澤佑少将によれば有馬黒木剛一大佐とともに必死戦法反対意見述べたという。5月1日海軍少将1944年3月15日海軍省航空本部出仕4月1日中部太平洋方面艦隊司令部附。

※この「翔鶴艦長」の解説は、「有馬正文」の解説の一部です。
「翔鶴艦長」を含む「有馬正文」の記事については、「有馬正文」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「翔鶴艦長」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「翔鶴艦長」の関連用語

翔鶴艦長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



翔鶴艦長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの有馬正文 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS