翔鶴艦長
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1942年(昭和17年)5月25日、翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」艦長。航海中は艦橋公室やオフィスを使わず常に艦橋にあって、食事は畳一枚ほどの艦長休憩室でとっていた。兵や部下に対して「お疲れ様です」「お早う御座います」と丁寧な言葉遣いで接し、未だ帰還しない艦載機の為に艦の危険を顧みずサーチライトの照射を命じ自らも双眼鏡を抱えて艦橋を離れなかった、戦死した部下の家族に欠かさず自筆の手紙を書き送っていたという。また短期現役士官の永田恒(当時、翔鶴主計長)を艦長室に招き、菓子や茶を交えながら雑談に興じたことがある。この時、有馬は中尉時代に共産主義にかぶれ海軍を辞めようとかと悩んだこと、その後は「日本人に赤(共産主義)は合わない、自由主義の方が良い」と判断を変えたと話す。さらに海軍軍人としての考えを語った。 7月14日、第三艦隊新編により、「翔鶴」は第三艦隊旗艦(兼第一航空戦隊旗艦)となる。第2次ソロモン海戦に参加。南太平洋海戦に参加。南太平洋海戦ではSBDドーントレス急降下爆撃機の攻撃により爆弾4発が命中。「翔鶴」は大破した。有馬艦長は第三艦隊司令長官南雲忠一中将に「本艦は高速で動けます。このまま進んでください。翔鶴がこのまま進んで敵の爆弾を吸収できたら、それだけ味方が助かるではありませんか。どうかこのまま進ませてください。」と「翔鶴」を囮にして敵機を引き寄せ、「瑞鶴」を中心とする残存兵力で米空母を壊滅させようと進言しているが、草鹿龍之介参謀長に「飛行甲板が大破した空母で戦えるのか」と一喝され、却下された。 1943年2月16日、海軍省航空本部教育部長。軍令部作戦部長中澤佑少将によれば、有馬は黒木剛一大佐とともに必死戦法の反対意見を述べたという。5月1日、海軍少将。1944年3月15日、海軍省航空本部出仕。4月1日、中部太平洋方面艦隊司令部附。
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