海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 14:02 UTC 版)
海軍中将・吉見乾海の長男として江田島に生まれる。弟の吉見博之は後に主計大尉となった。祖父の吉見雲台は越後長岡藩医で戊辰戦争で戦死している。小田原中学、広島一中を経て海軍兵学校入校。1915年(大正4年)12月同校卒業(第43期)。同期生に矢野志加三、中澤佑、高木惣吉らがいる。 海軍砲術学校高等科学生を卒業し、「帆風」砲術長、「霧島」分隊長、「対馬」砲術長、「陸奥」分隊長等を経て海軍少佐に進級。「球磨」砲術長、「長門」副砲長、「赤城」砲術長、「澤風」駆逐艦長、「勢多」艦長、「出雲」副長、「山城」副長と艦船勤務が多く、地上勤務は海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部員などであった。 呉鎮守府人事部第三課長在職中の1940年(昭和15年)11月海軍大佐へ進級。上海在勤武官府附等を経て、1943年(昭和18年)7月13日第64警備隊司令に就任。終戦までマーシャル諸島のウォッゼ島の守備にあたった。1944年(昭和19年)10月15日、海軍少将に昇進。卒業席次が95名中89位の吉見は同期の出世頭より大佐昇進は4年、少将昇進は2年遅れであった。
※この「海軍軍人として」の解説は、「吉見信一」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「吉見信一」の記事については、「吉見信一」の概要を参照ください。
海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:14 UTC 版)
1932年(昭和7年)11月29日、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長に補される。1933年(昭和8年)11月から約1年間、呉市新宮町で暮らす(邸の名前は俊山荘)。 当時は、昭和天皇に皇子が無く(内親王4人の誕生が続き)、男児の誕生が強く望まれていた。また、義母徳川實枝子(有栖川宮威仁親王第2女子:實枝子女王、喜久子妃の実母)が癌に倒れ、1933年4月25日に逝去していた。宣仁親王は、その日の日記に「子を成すことが、義母:實枝子や父:大正天皇に対する”つとめ”」であるという主旨の内容を記している(「高松宮日記」では、實枝子逝去に際して「喜久子に子どもでも作って、(實枝子を)おばばさまにしてからお送りすればよかった」旨の記述がある)。同年12月23日に、昭和天皇の第5子、第1皇男子として継宮明仁親王(のち第125代天皇、上皇)が誕生した際には、「重荷のおりた様なうれしさ」と日記に記した。 宣仁親王の喜びは大きく 「 おのつから涙わきけり うれしさは 日つきの御子の うまれましたる 」 —中央公論社『菊と葵のものがたり』 p.198 をはじめ、複数のお歌を詠んだ。 結果的に、長兄・昭和天皇(7人:2男5女)、弟・三笠宮崇仁親王(5人:3男2女)と違い、宣仁親王は次兄・秩父宮雍仁親王同様に子女は無く、夫妻の血筋は遺されていない。 1934年(昭和9年)11月10日、海軍大学校に入校(甲種学生34期)、1935年(昭和10年)11月15日、海軍少佐に進級。1936年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。 1940年(昭和15年)4月29日、支那事変従軍記章と功四級金鵄勲章を受けらる、同年7月3日、戦艦「比叡」砲術長、11月15日に海軍中佐進級。「比叡」砲術長時代、部下に海軍将校の心得を訓示した際、「青年士官は現在任務が重要であり、艦の中堅となること現在の最大の任務なり。これをわきまえていれば五・一五事件は起こらぬ筈なり」と述べた。 1940年(昭和15年)11月10日に、内閣主催で、昭和天皇・香淳皇后臨御の下に宮城外苑にて挙行された「紀元二千六百年式典」の翌11月11日に同会場で行われた奉祝会で、その総裁であった兄・秩父宮雍仁親王が病気により欠席したため、その代理を務め、同奉祝会で長兄・昭和天皇への奉祝詞奏上、自身による聖寿万歳三唱などを行った。 1941年(昭和16年)4月5日、「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意より、横須賀海軍航空隊教官に補される。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務めた。この頃、保科善四郎(海軍省兵備局長)に日本軍の実情を聞き、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。昭和天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早正隆が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)としての責務である。」と語っている。 11月30日、宣仁親王は昭和天皇のもとに行啓し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生してより制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。 1942年(昭和17年)11月1日、海軍大佐に昇級。 開戦後も宣仁親王は和平を唱え、嶋田海相の辞任や東條内閣の総辞職を度々主張し、後の終戦後史上唯一の皇族の総理となる東久邇宮稔彦王、弟・三笠宮崇仁親王等の和平派皇族や、米内光政等をはじめとする海軍左派、近衛文麿前首相及び、首相を戦後に務める吉田茂等の政界の和平派と結んだ。更に側近の細川護貞によれば、信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。 宣仁親王は1944年(昭和19年)夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、「絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。このような言説を内大臣の木戸幸一は嫌っており、側近の木戸を通じ、昭和天皇の宣仁親王に対する印象も悪化していった。昭和天皇自身はあくまで政府・軍高官との直接のやり取りを重視するのが筋と考えており、宣仁親王を遠ざけていた。宣仁親王は昭和天皇と直接話す機会が徐々に少なくなっている事を周囲に語っている。 1945年(昭和20年)4月9日、戦局の悪化を受けて、宣仁親王は民心一新の為、兄・昭和天皇の名代として伊勢神宮を参拝した。この参拝は元々宣仁親王自身の発案であり、宣仁親王は若い官吏が国民に対し威張り不親切な態度を取っている現状を憂い、神罰で以てこれにあたることを考えていた。しかし昭和天皇は官吏任命も自身の責任であるとして神罰の祈願には反対し、あくまで平和到来とその後の国家指導に関する祈願のみを名代として託すことになった。 大戦末期にはフィリピンに向かう大西瀧治郎海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えた。 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任(昭和天皇の戦争責任論)について指摘している。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、実質的にはほとんど米軍)が進駐する間際には東久邇宮稔彦王首相宮(史上唯一の皇族首相かつ任期が54日間と史上最短の首相)の命を受けて寺岡謹平海軍中将や第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐と共に、厚木海軍飛行場において徹底抗戦を主張する第三〇二海軍航空隊に対し、武装解除の説得に赴いた。
※この「海軍軍人として」の解説は、「高松宮宣仁親王」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「高松宮宣仁親王」の記事については、「高松宮宣仁親王」の概要を参照ください。
海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:07 UTC 版)
1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、1879年(明治12年)に卒業した(6期)。同期に山内万寿治、坂本俊篤がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた。1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。1888年(明治24年)[要出典]に帰国し、海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。1896年(明治29年)11月6日に戦艦「富士」回航委員に任じられ、艦はスエズ運河を通航して1897年10月31日に横須賀に到着した。1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。 1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。同年9月2日に朝鮮の南大門駅(現 ソウル駅)において、独立運動派テロリストの姜宇奎に爆弾を投げつけられる暗殺未遂事件に遭遇している。ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。
※この「海軍軍人として」の解説は、「斎藤実」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「斎藤実」の記事については、「斎藤実」の概要を参照ください。
海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 00:45 UTC 版)
「ジェームズ・ハリソン・オリバー」の記事における「海軍軍人として」の解説
1877年に米国海軍兵学校を卒業後、1879年に士官候補生に任命された。1881年に少尉に昇進し、1893年に中尉に昇進。1900年に少佐に昇進した。戦闘給糧艦(英語版)グレイシャー(英語版)の指揮を務めた。 1904年、補給艦カルゴア(英語版)を指揮していたところ、デラウェア湾でスクーナー船と衝突。スクーナー船の乗組員が29人死亡した。オリバーは事故の責任を問われ、逮捕されたが、1年以上船の指揮を続けた。その間、海軍の伝統に従い、軍刀を剥奪されるという屈辱的な行為を受けた。その後の軍事裁判では、「名誉をもって」無罪となった。正式に刀を返還する式典で、オリバーは刀を折って海に投げ込み、すぐに海軍を退役した。引退後、オハイオ州シンシナティの灯台委員会(英語版) で、検査官に任命された。1906年、セオドア・ルーズベルト大統領はオリバーを正式に復職させ、中佐に昇進させた。アメリカが第一次世界大戦に参戦する直前の1910年に大佐に昇進し、1916年に海軍少将に昇進した。その後、1917年までに海軍情報局長に昇格した。
※この「海軍軍人として」の解説は、「ジェームズ・ハリソン・オリバー」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「ジェームズ・ハリソン・オリバー」の記事については、「ジェームズ・ハリソン・オリバー」の概要を参照ください。
海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 00:44 UTC 版)
「ジョセフ・ウォレス・オマーン」の記事における「海軍軍人として」の解説
1882年に米国海軍兵学校に入学。下院議員のロバート・クロッツ(英語版)によって海軍士官候補生に任命され、1886年にはクラス4位の成績で卒業した。防護巡洋艦アトランタや蒸気船ガレーナ(英語版)に乗船。1888年には少尉に任命され、1896年には中尉に昇進した。 米西戦争で砲艦ヘレナ(英語版)に乗船し、第三次マンサニージョ海戦(英語版)に参加した。米比戦争では、砲艦マリベレス(英語版)を指揮。1909年には司令官に昇進。ボストン海軍工廠の司令官を2年務めた後、装甲巡洋艦ノースカロライナや戦艦ジョージアの艦長を歴任。1916年から1917年にはニューヨーク港の監督官を務めていた。 1917年7月、軍隊輸送船リヴァイアサンの船長に任命された。同船はドイツ帝国の民間旅客船で、1914年当時世界最大の旅客船であった「ファーターラント号」を戦時徴用したものであった。その船体は54,282トン、全長289.6mと巨大であったが、ダズル迷彩を施すといった対策を行ったこともあり、潜水艦の哨戒を回避することに成功。終戦までに12万人近くの兵士や物資の輸送に成功した。オマーンはこれらの功績により海軍十字章を授与された。その後、1918年に少将に昇進した。
※この「海軍軍人として」の解説は、「ジョセフ・ウォレス・オマーン」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「ジョセフ・ウォレス・オマーン」の記事については、「ジョセフ・ウォレス・オマーン」の概要を参照ください。
海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:05 UTC 版)
日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している。 枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。 同じ頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、校長の井上成美に会い「教育の効果が現れるのは20年さきだよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長が鈴木であった。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている。
※この「海軍軍人として」の解説は、「鈴木貫太郎」の解説の一部です。
「海軍軍人として」を含む「鈴木貫太郎」の記事については、「鈴木貫太郎」の概要を参照ください。
- 海軍軍人としてのページへのリンク