英海軍軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:09 UTC 版)
「フィリップ (エディンバラ公)」の記事における「英海軍軍人として」の解説
1939年、フィリッポスはダートマス海軍兵学校へ進学する。同年7月22日、兵学校を訪問した英国王ジョージ6世一家の接待役に、急遽選ばれ、推定相続人のエリザベス王女(当時13歳)・マーガレット王女(当時9歳)と対面した。急な抜擢には、後見人である叔父ルイス・マウントバッテン卿の、フィリップを王家に婿入りさせようとする意思が反映されているとみなされ、国王・王妃夫妻の印象は良くなかった。 フィリッポスは姉妹とテニスコートで遊び、エリザベス王女はフィリッポスに「一目惚れした」とされる(後に、エリザベス2世の公式な伝記にも記述された)。そしてフィリッポスは、国王一家のヨットに、ボートで国王が呆れるほど最後まで追随し、エリザベス王女に強い印象を残した。 そして同年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を機に、9月3日、英国はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。これに前後し、中立国ギリシャの王族であるフィリッポスを、ルイス・マウントバッテン卿は英国に帰化させようと画策したが、不調に終わる。 海軍は検討の末、フィリッポスを戦艦「ラミリーズ」に勤務させ、インド洋で半年余り任務にあたらせた。当時は「艦長付」であり、主な任務はコーヒー汲みと揶揄された。なお同年に祖国のギリシアはイタリア軍の侵略を受け、ドイツ軍とイタリア軍、ブルガリア軍の枢軸国3国によって分割占領されることになった。 1941年1月からは、戦艦「ヴァリアント」に乗艦し、地中海での任務にあたる。この年「ヴァリアント」は複数の海戦に参加しており、マタパン岬沖海戦でのフィリップの勇戦が認められ、ギリシア十字勲章(Greek War Cross)を受章した。 1942年7月には海軍中尉に昇進し、駆逐艦「ウォリス(英語版)」で先任将校として勤務する。1943年7月の連合軍のシチリア上陸作戦を支援した。その後駆逐艦「ウェルプ」に異動。「ウェルプ」は第27駆逐艦隊の一隻で、インド洋方面へ向かいやがて終戦を迎えた。日本政府が降伏文書に調印した1945年9月2日には、「ウェルプ」は東京湾に停泊していた。終戦後の翌1946年1月にイギリス本国へ帰還する。 フランスに亡命していた父のアンドレアスは、フランスがドイツ軍に占領された後はヴィシー政権の監視下に置かれ、それ以降フィリップを含む家族の誰とも面会することなく、1944年にモナコで死去した。
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