英独開戦と自殺未遂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/02 04:40 UTC 版)
「ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード」の記事における「英独開戦と自殺未遂」の解説
イギリスがドイツに宣戦布告した1939年9月3日にユニティはオーバーバイエルン大管区指導者アドルフ・ワーグナーと会見し、英国籍の自分は逮捕されることになるのだろうかと尋ねた。ワーグナーは「そのようなことはありえない。貴女の安全は私が保証する」と答えたが、ユニティには聞こえていないようだった。ユニティは彼に封筒を預けた。開戦があった日であるからワーグナーも多忙であり、ユニティにそれ以上構っている暇はなかった。午後にヒトラーと電話している時にようやくユニティの封筒の事を思い出して開けてみた。中にはユニティが大事にしていたヒトラーのサイン入り写真とナチ党員バッジとともに「イギリスとドイツの戦争は耐えられないので自殺する」という内容の遺書が入っていた。びっくりしたワーグナーは再度ヒトラーに電話し、ヒトラーはすぐにユニティを探し出すよう命じた。 この時すでにユニティは彼女のお気に入りの場所だったミュンヘン市内の英国庭園でこめかみを撃って自殺を図っていた。警察官がすぐに発見したためミュンヘン大学病院に担ぎ込まれ、一命を取り留めた。しかし弾丸が後頭部にめりこんでいたため摘出は危険としてそのままにされ、数日間意識不明状態が続いた。意識が戻った時ユニティの顔は腫れあがり、脳の言語中枢が破壊されていた。ユニティは会話することもできない状態になっていた。 ヒトラーはユニティの病室に時折花を贈ったり、病院に容体を問い合わせたりしたが、見舞いにはあまり行かなかったようである。見舞いに行った回数については意見が分かれているが、確実に行ったと考えられているのは1939年11月8日の一度だけであるという。その時には少し会話ができるようになっており、ヒトラーが何をしたいか尋ねると、ユニティは数週間イギリスへ帰り、それからミュンヘンに戻りたいと語ったという。ユリウス・シャウブによるとヒトラーはユニティの状態に酷く動揺し、シャウブに以降の見舞いを頼んだという。そして病院にユニティの治療費を全額支払い、中立国スイスへ送る手配を進めた。英国でも父デーヴィッドが戦争大臣(英語版)オリバー・スタンリー(英語版)へ働きかけてユニティへの尋問を免除させ、母シドニーが1600ポンドを費やして医療設備を備えた豪華客車を手配していた。こうしてユニティはスイスのベルンを経由して鉄道でフランスのカレーまで移送され、そこから海路でイギリスへと帰国した。
※この「英独開戦と自殺未遂」の解説は、「ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード」の解説の一部です。
「英独開戦と自殺未遂」を含む「ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード」の記事については、「ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード」の概要を参照ください。
- 英独開戦と自殺未遂のページへのリンク