英独建艦競争
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ドレッドノートの建造の時期はイギリスとドイツの間が緊張を増してきた時期でもあった。イギリスの海上覇権に対抗するための用心深い政策の一環として、ドイツは1890年代に大きな戦艦艦隊を造り始めた。1904年にイギリスとフランスが英仏協商を締結したことで、イギリスの主たる海上仮想敵がドイツであることはますます明らかとなった。ドイツはティルピッツの艦隊法に基づき、大規模で最新の艦隊を築きあげつつあった。この競争は、第一次世界大戦前の時期における2つの巨大な弩級戦艦艦隊を生み出す結果となった。 ドレッドノートへのドイツの最初の回答は、1907年に起工されたナッサウ級戦艦だった。そしてその後に1909年のヘルゴラント級が続いた。それらと2隻の巡洋戦艦(ドイツはこの艦種にフィッシャーのように熱心でなく、正式には主力艦でなく装甲巡洋艦として建造した)を合わせて、1909年時点で完成または建造中のドイツの最新の主力艦は10隻を数えた。イギリス艦はドイツの対抗艦よりもいくぶんより高速かつ強力だったが、保有比率はイギリス海軍が望んだ2:1には遥かに及ばず12:10まで落ち込んだ。 1909年にイギリス議会は、ドイツが戦艦の保有数についての条約交渉に応じるという希望を留保しつつ、さらに4隻の主力艦建造を承認した。そして条約による解決が得られないならば、さらに4隻の戦艦を1910年に起工することになっていた。この妥協的な結論ですら、1909-10年に(いくつかの社会変革ともあいまって)憲法危機を招きかねないほどの増税が必須であることを意味した。結局1910年には、イギリスは4隻のオライオン級超弩級戦艦を含む8隻の建艦計画を進めることとなり、さらにオーストラリアとニュージーランドが購入する、その名を持つ2隻の巡洋戦艦が加わった。同じ期間でのドイツ戦艦の起工は3隻にとどまったため、イギリスの優位は22:13まで高められた。イギリスがこの建艦計画で示した決意は、建艦競争終了への妥結の道をドイツに探らせることとなった。海軍本部の新たな目標である対独60%優位という数値は、ティルピッツが目指した50%という数値とかけ離れたものではなかったが、交渉は、イギリス連邦諸国の巡洋戦艦を数に含めるかどうかという問題や、さらにはアルザス=ロレーヌのドイツ領有の認知といった海軍と関係ない問題にまでおよび、結局決裂した。 弩級戦艦の建艦競争は1910年、1911年に一段と過熱し、いずれの年もドイツは4隻、イギリスは5隻の主力艦を起工した。緊張は1912年のドイツの艦隊法の成立によって頂点に達した。これは戦艦と巡洋戦艦合わせて、イギリスの本国海域におけるよりも多い33隻という数を保有しようというものだった。イギリスにとってさらに悪いことには、イタリア海軍が4隻を保有し、かつさらに2隻を作ることに対応して、オーストリア=ハンガリー帝国海軍も4隻の弩級戦艦を作り始めた。それらの脅威に局面して、イギリス海軍はもはやイギリスにとって不可欠な支配力を保証することはできなかった。イギリスは、さらに多くの戦艦を建造するか、地中海から撤退するか、フランスとの同盟を模索するかのいずれかを選択しなければならなかった。社会福祉の提供に関する予算要求が叫ばれていたその当時、費用のかさむ海軍の増強は到底容認されるものではなかった。地中海からの撤退もイギリスの影響力を大きく損ね、地中海でのイギリス外交を無力化し、大英帝国の安定性を揺るがすことになるはずだった。唯一許容できる選択は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルも勧める、過去の方針と決別してフランスと同盟を結ぶことだった。イギリスがフランスの北の海岸を保護する一方、フランスは地中海でイタリアやオーストリア=ハンガリーを牽制する責任を負った。一部の政治家の反対があったにもかかわらず、イギリス海軍は1912年に、この原則によって自身の再組織を行った。 これらの重要な戦略的な動きにもかかわらず、1912年の艦隊法は戦艦保有比率にはほとんど影響しなかった。ドイツが戦略資源を陸軍に集中させたため新たな起工が5隻にとどまったのに対し、イギリスは1912年-1913年の予算で新たに10隻の超弩級戦艦 — 武装、速力、防御のすべてについて新たな革新を行ったクィーン・エリザベス級とリヴェンジ級 — を起工することで対応した。
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