英法派の男女平等論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
英法派の延期論は論争を経る内に保守的色彩を強めたが、英法の理論が保守的だったわけではない。フランス革命政府が当初採り入れようとした刑事訴訟法は英法であり、男女平等論が主張されていたのも主に英米であった。 宗教改革でもルターが妻の姦淫による法定離婚を認め、カルヴァンが夫にも貞操義務を認めたに止まったが、イギリスの清教徒たちは婚姻を罪とは見ず、人間の完成に必要な制度と考えた。一時は江戸時代の日本やナポレオン法典をも凌駕した男性優位の法制度はウィリアム・グラッドストンによって1870年に改められ、妻の訴訟能力や特有財産を認めて欧州諸国を驚かせた。 英米の男女平等論は明治初期の日本にも影響を与え、男女平等を徹底すべきとの論が一世を風靡、植木枝盛にも影響を与えた。 一方、ベンサムは、男尊女卑を批判しつつも、形式的平等の弊害を指摘し、親権や後見人制度と同じく一定の限度で上下関係を設ける方が合理的と論じ(男女殊権論)、小野梓(東京専門学校創立者、戸主制全廃論者、法典論争勃発前に死去)などに影響を与えていた(ベンサムは後に夫婦同権論に改説)。 英法派・保守派の法典延期論者としては江木のほか奥田義人、元田肇の名が挙がっている(星野)。増島六一郎も商法典論争で非常に反動的な論を吐くが、法典反対論の政略的便法に過ぎなかったとも言われる(福島)。
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