カルバン【Jean Calvin】
カルヴァン 【Calvin】
カルヴァン
ジャン・カルヴァン
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ジャン・カルヴァン(フランス語: Jean Calvin [ʒɑ̃ kalvɛ̃]、1509年7月10日 - 1564年5月27日[1])は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者[2]である。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。
- ^ John Calvin French theologian Encyclopædia Britannica
- ^ a b c d e f g h i j 柿沼博子「カルヴァン政治思想における自由論の意義(一)」法学会雑誌 49(2), 2009, 首都大学東京
- ^ 「新訂版 倫理資料集」(清水書院)、174頁
- ^ 久米あつみ著『カルヴァンとユマニスム』、御茶ノ水書房、1997年。
- ^ J. カルヴァン著「キリスト教綱要(初版)」、久米あつみ訳、『宗教改革著作集』第9巻、教文館、1986年。
- ^ 田上雅徳著『初期カルヴァンの政治思想』、新教出版社、1999年。
- ^ E. W. モンター著『カルヴァン時代のジュネーヴ 宗教改革と都市国家』、中村賢二郎・砂原教男訳、ヨルダン社、1978年。
- ^ K. バルト著『教会教義学』、新教出版社。バルトがカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の予定論を批判したのは、同書の第2巻第2分冊(吉永正義訳)。
- ^ G. C. Berkouwer, Divine Election, Studies in Dogmatics, Eng. Tras. by H. Bekker, 1960.
- ^ Herman Bavinck, Gereformeerde Dogmatiek, Eerste deel, Uitgave van J. H. Kok te Kampen, Vierde Onveranderde Druk, 1928, p. 152.
- ^ H. E. テート著『ハイデルベルクにおけるウェーバーとトレルチ』、宮田光雄・石原博訳、創文社、1988年。ヴェーバーとトレルチ、また加えて法制史研究者ゲオルク・イェリネックの三者は、同じ時代にハイデルベルク大学で教鞭をとり、共同研究会を開いていた仲間である。
- ^ A. カイパー著『カルヴィニズム』、鈴木好行訳、聖山社、1988年。
- ^ P. ヘルム著『カルヴァンとカルヴァン主義者たち』、松谷好明訳、聖学院大学出版会、2003年。
- ^ S. ツヴァイク著『権力とたたかう良心』、ツヴァイク全集17、高杉一郎訳、みすず書房、1988年。
- 1 ジャン・カルヴァンとは
- 2 ジャン・カルヴァンの概要
- 3 生涯
- 4 思想の影響
- 5 批判
- 6 脚注
カルヴァン
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カルヴァン
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1536年、ジュネーヴに滞在していたカルヴァンは、福音主義的改革を導入しようとしていたヴィルヘルム・ファレルに援助を懇請され、協力した。この年の5月、ベルンの援助を受けて福音主義に転じたジュネーヴであったが、いまだ改革の緒についたばかりで方針も定まっていなかった。1537年1月16日、カルヴァンら牧師団は市参事会に教会改革案を提出した。ただちに新しい「信仰告白」を含むカテキズムが刊行され、市民はこの「信仰告白」に対して宣誓を求められた。しかし、カルヴァンらはこの「信仰告白」が守られているか厳しく監督したために、市民の間に改革に対する抵抗感が芽生えた。また当初から市参事会は、カルヴァンらの主張の中に教会権を世俗の権力から独立させようとする意図があることに気づいていた。1538年4月23日新しい市参事会が発足すると、カルヴァンとファレルは追放され、カルヴァンはマルティン・ブツァーの勧めにより、ストラスブールのフランス人難民教会の説教師を務めることとした。この間1539年にカルヴァンはビューレンのイデレッテと結婚した。ジュネーヴで再び福音主義派が勢いを盛り返し、再び招聘を受けて1541年9月13日カルヴァンはジュネーヴへと帰還した。帰任早々の9月20日カルヴァンは「教会規定」を立法化し、牧師・教師・長老・執事という4職を定め、「神権政治」を開始した。牧師と教師は説教などを通じて司牧の役割を担い、聖書解釈の問題などについて定期的に審議した。長老は、牧師・教師とともに監督院を形成して、市内のどの家でも自由に立ち入ることができる権利を有し、市民生活を監督した。執事は教会施設の管理と救貧を担った。 「神権政治」開始後の最初の5年間に、56件の死刑判決と78件の追放がおこなわれ、反対派はことごとく弾圧された。1559年には神学大学が設立され、プロテスタント系の神学大学としては、すぐにヴィッテンベルク大学に勝るほどの勢いとなった。 カルヴァン死後の1566年にはツヴィングリ派との間で合同がなり、スイスの改革派は統一され勢力を強めた。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった。 カルヴァン主義はやがてフランスでは組織化されてユグノー戦争を惹起し、スコットランドにおいては1560年に国教会の地位を獲得した。 1600年ごろには、カトリック・プロテスタント各々のカントンのみによる分離会議が開かれていた。しかし、民衆の間で好まれた演劇などを考慮すれば、このような状況にもかかわらず、スイス人として自由と協調に基づいた国民意識が存在していたことを推測することが出来る。彼らにとって、ヴィルヘルム・テルやニコラウス・フォン・フリューエは相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄であった。 カルヴァンの政治思想には2つの要点がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。 カルヴァンはアウグスティヌスに従って、教会を、神によって定められた独自の権威を持つものと考える。彼はこの世には見える教会と見えない教会があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって、儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために、規律を必要とし、内部に政治が必要とされるのである。そのため教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を出すことが出来る。 一方世俗権力の担い手である国家は、真の宗教、正しい信仰を広めるためのものである。もちろん既存国家の中には必ずしも完全な信仰に合致していない場合もあるが、そのような国家に対して反抗することは絶対に許されない。もし抵抗を認めてしまえば、無秩序に陥る恐れがあり、またそもそも神の力によって、誤った状態は長く続くことはないと考えられるからである。 カルヴァンは、理不尽な権力者に対しては殺害してもよいというユグノー派のモナルコマキ(暴君放伐論)の政治理論の先駆けともされる。
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「カルヴァン」の例文・使い方・用例・文例
- カルヴァン主義の説で、人間は原罪により腐敗した状態で生まれるという
- 神の全能と慈悲による救いを強調する、ジャン・カルヴァンとその弟子たちによる神学体系
- 長老会派教会の主義と実践:カルヴァン主義に基づく
- (厳格なカルヴァン主義の予定説の教義に反対した)オランダ人神学者ヤコブス・アルミニウスの教えを信じるバプテスト派信徒のグループ
- 厳格な予定説を信じたフランスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを信じるバプテスト信徒の集団
- ジョン・カルヴァンの見解を信奉するプロテスタントの宗派
- 16―17世紀のフランスカルヴァン主義
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