カルヴァンの宗教改革
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「カルヴァンの宗教改革」の解説
詳細は「ジャン・カルヴァン」を参照 フランス北東部のノワイヨンの町に生まれたジャン・カルヴァンは、1523年にパリに上り、パリ大学で、近代的教育法の祖といわれるマチュラン・コルディエ(フランス語版)のもとでラテン語の教育を受け、人文学・スコラ哲学を学び、さらにフランス・カトリックの一大根拠地であり、反福音主義の牙城ともいうべきモンテーギュ学寮(フランス語版)で5年にわたって哲学、文法、弁論術などを学んで、次いでオルレアンとブールジュの大学で法学を修め、合わせてギリシア語・ヘブライ語も学んだ。1533年11月1日、パリ大学の新しい総長ニコラ・コップ(フランス語版)は福音主義者で、信仰義認をテーマとした総長就任演説をおこなったが、そこにルターの表現が含まれていたため、その演説直後には異端の申し立てがなされ、コップはフランス国内を転々とした。この演説の草稿づくりにカルヴァンも関与したことから彼自身もパリを脱出せざるを得なくなり、1534年には檄文事件で激化した弾圧を避けるためにコップとともにスイスのバーゼルに亡命した。こうして改革者への道を歩み出すこととなったカルヴァンは、バーゼルの地で主著『キリスト教綱要』を1536年に刊行している。
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