カルヴァン主義正統との対比
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 00:22 UTC 版)
「アルミニウス主義」の記事における「カルヴァン主義正統との対比」の解説
アルミニウス主義に対して、ドルト信仰基準について簡単に言うと、 全的堕落 (Total depravity) 無条件的選び (Unconditional election) 制限的贖罪 (Limited atonement) 不可抵抗的恩恵 (Irresistible grace) 聖徒の堅忍 (Perseverance of the saints) であり、この5つの特質をもってカルヴァン主義の正統とし、この頭文字をとって、しばしば「TULIP」の神学と呼ぶ神学者もいる[誰?]。 アルミニウス主義はこの逆であったわけだが、アルミニウスは、信じていなくても結果的に救われる(万人救済主義、ユニバーサリズム)と考えたのではなく、 あなたがたは、行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、またわたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように彼らに教えなさい。 — マタイ 28:20 とある聖書のことばが、カルヴァン派が恵みと神の予定、聖定を強調するあまり、あらかじめ決まっているのだから伝道しなくてもよいような、空しいような考え方に陥ってしまうこと、人間の自由意志を軽視している、ことをいいたかったのである。 つまり、アルミニウスは、神の主権と恵みが人間の自由意志とどのようにかみ合っているのか、と考えたのであって、ペラギウスのように、意思を働かせて努力すれば神のもとへ上っていくことができると考えたわけではなく、また、神の恵みの質量を保持するために、人的働きの意義を極限にまで減少させなければならないと考えたわけでもない。更に、創造者である神の主権が人間との関係において絶対的、不可抵抗的な形で行使されなければ主権の意義がないがしろにされるとは考えなかった。アルミニウスにとって、救いも信仰も人間の功績とは無関係に、キリストの恵みのゆえに与えられる神の賜物である。しかし、その信仰は、人が自分で受けて働かせなければ意味がない、先行していく恵みに対してついていくのかそれとも拒むのか、また神の一方的な愛に対してどのような態度を取り、どのように反応するのかは、人間の責任領域にあると言う。愛や礼拝の世界では、自発的に参加することは、強制的に中に引き込まれるよりはるかにすばらしいという道徳的原則を、神の主権は否定しない。 自由な律法(=信仰によって救われているので、律法を守ることから自由になっている状態)にさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。(中略)〔喜ばしい確信にあふれる=(信仰によって救われた状態)〕あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(中略)だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。 — ヤコブ 2:12~14 兄弟また姉妹の誰かが、着るものがなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、(中略)その人たちに、(中略)必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。」 — ヤコブ 2:15~16 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 — 2コリント 9:7 しかし、アルミニウスの後継者の中から、救いにおける人間の役割を強調するあまり、ペラギウス主義や半ペラギウス主義に陥ってしまう者が現れたという事実と、聖書をよく読むと判るように、実は両派は聖書の伝えたいことを別の面から言い換えていることから、カルヴァン主義者も、論争から離れてしまえばアルミニウス主義者と同じように行動し、生活していることも事実である。 また、カルヴァン派とアルミニウス派には、19世紀以降、自由主義神学など多くの共通の敵に立ち向かわなければならなくなったため、現在では、お互いに相手を異端とはみなしていない。 1784年にメソジスト派は英国国教会(聖公会)から独立したが、その際に同派は、アルミニウス主義を英国国教会から受け継いだ。メソジスト派が母体となって、アメリカでホーリネス、ナザレン、アライアンス、フリーメソジストなどの教会が生まれ、ホーリネス教会からペンテコステ派の流れが生み出されたが、全てアルミニウス主義を受け継いでいくこととなった。
※この「カルヴァン主義正統との対比」の解説は、「アルミニウス主義」の解説の一部です。
「カルヴァン主義正統との対比」を含む「アルミニウス主義」の記事については、「アルミニウス主義」の概要を参照ください。
- カルヴァン主義正統との対比のページへのリンク