カルヴァンの思想
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「カルヴァンの思想」の解説
カルヴァンの神学は信仰義認、聖書中心主義をはじめルターやツヴィングリのそれから受け継いだ部分が多い。そうしたなかで、カルヴァンの思想を特徴づけるのは、徹底した神中心主義と救霊予定説である。カルヴァンの教理においては、神の栄光、神への祈りと服従がつねに強調される。ルターにおいては力点が人間の苦悩に置かれるのに対し、カルヴァンではあくまでも神自身に置かれるのである。カルヴァンによれば、神を認識することこそが人生の主要目的なのであり、それによって自己を認識するのである。神の像に似せて創造された人間は、本来的には神の栄光の輝きを受けている。自由意志をもった人間は、それによって永遠の生命を得ることも可能であったはずなのに、アダムが原罪を犯して以来、その自由意志によって神に反逆し、罪に陥って人間のあり方は堕落した。この堕落から救済されるためには、人はイエス・キリストにおいて再創造されなくてはならない。人間の罪の身代わりとして地上に送られた神の子イエスにつらなることによって、我々は値なくして救われることができるのである。 神は憐れみによってイエスを世に送ったが、これはすべての人間を赦すためではなく、恩恵に浴することができるのはその一部だけである。人は神の意志により、ある者は永遠の救いに、ある者は永遠の滅びに定められる。これはもっぱら神が自由に決定する領域に属し、しかも神はあらかじめこれを定めていると説く。これが、カルヴァンの唱える予定説である。では、こうした神の選びの絶対的自由を前にして、人はただ絶望するしかないのか。カルヴァンは決してそうではないと説く。なぜなら、神の憐れみは無限であり、それは人々にとっては無限の恵み(恩寵)であり、神を信じて我々に説かれている神の教えを受け入れ、こうしてキリストと一体となった信徒は自らが選ばれていることをもはや疑わないからである(信仰義認)。そして、神は救われるはずのない者まで選びだして救おうとするのである。人間の善き行いも、神の憐れみを強く信じるときにこそ、選びのしるしとなる。そうして、人間の日々の生活の営みは信仰を介して聖化されていく。人生の目的は神は知り、神に栄光を帰して従い、祈りを捧げることにある。それぞれの各個人が営む職業も神が定めたところなのであり、あらゆる職業が「天職」である。それが「召命」である以上、これに精励しなければならないものであり(職業召命観)、一方でこの考えは職業における聖俗の区別の否定につながるのである。 カルヴァンは、再洗礼派との論争のなかで、「神のことばが述べ伝えられて、聖礼典が執行されるところに教会が存在する、それ以外に何が必要なのか」と述べている。この世に完全無欠な教会などないと考えるカルヴァンは、ルターとは異なり、最初から目に見える制度的な教会の必要性を認めた。そして、ルターが教会というものの中味をカトリックと同様、洗礼を受けたすべての者の集まりであるとしたのに対し、カルヴァンはそうではなく「信仰を告白し、善き生活を営む信徒の集まり」と考え、より狭いものとしてこれをとらえた。そこで、教会の構成員は真の信仰と善き道徳との厳しい実践者たることが義務づけられる。牧師は神の言葉を説き、公教要理を教えて聖礼典をおこなう存在であり、聖礼典は洗礼と聖餐式の2つで、信徒が信仰をより強固にすることを助ける。聖餐式に関しては、カルヴァンはルターの共在説ともツヴィングリの象徴説とも異なり、いわばその中間的な立場をとっていた。つまり、イエスはパンと葡萄酒のなかに実在するが、それは「霊的に」実在するという理解である。 信徒の日常生活を監視し、これを正しく導き、信徒相互の紛争を調停するのは聖職者ではなく「長老」と称される俗人であり、貧者の救済も俗人の「執事」に任される(長老教会制)。道徳的に瑕疵(かし)のある信徒は、聖餐式への参加を行いが改められるまで禁止され、行状のとくに悪い者に対しては破門もある。それのみならず、世俗の権力者からの処罰も甘受しなければならない。カルヴァンの思想は社会生活全般を宗教一色で染め上げようという指向をもち、その意図は彼の国家観にも現れている。カルヴァンは、アウグスティヌスの「神の国」「地の国」の考え方に影響を受け、教会と国家の権力の差異と非類似性からいって、「霊的王国」と「政治的王国」は常に区別しなければならないとした。 カルヴァンの政治思想には2つのきわだった特徴がある。1つは教会を世俗権力から独立させること、もう1つは世俗権力に教会の目的への奉仕をさせることである。彼は教権と俗権という「二本の剣」は分離不可の関係ではあるが、明確に弁別されるべきであると述べた。カルヴァンはアウグスティヌスに従い、教会を神によって定められた独自の権威を持つものと考え、この世には「見える教会」と「見えない教会」があるという。見えない教会は正しい信徒の作る精神的な共同体で、時間と空間の制約を受けない。見える教会は信徒が集まって儀礼や礼拝、説教が行われる場所で、この見える教会においては成員すべてが必ずしも完全な信仰を有しているわけではない。そのため、見える教会は成員すべてを完全な信仰に導くために規律を必要とし、内部に政治が必要とされるほか、教会の幹部は道徳を含む世俗の問題に対しても判決を下せる。 一方、世俗権力の担い手である国家は、神の地上の代理人にして下僕であるとカルヴァンは考える。為政者は、信仰の正しい実践を保って人民の安全と財産を守り、正義を行わなければならない。そして、このような為政者に対し、人民は絶対的に服従しなければならない。服従を免除されるのは、為政者が神の命令にそむいた場合に限られる。国家とは真の宗教、正しい信仰を広めるためのものだと考えたカルヴァンは、政治権力に「三位一体説」という教会にとって最も重要な教義を認めさせる一方、世俗の司法機関における世俗的な裁判官の権限を高めた。カルヴァンの思想のうち、無抵抗については彼の死後現実のユグノー弾圧への対応として、理不尽な支配に対しては抵抗してもよいというモナルコマキの政治理論が登場した。それと同様にカルヴァンの思想にある非寛容で妥協を許さない部分も、カルヴァン主義が深刻なコンフェッショナリズム(後述)に直面するうちに動揺し、そのなかから寛容論が起こってくる。 カルヴァンと彼の一派は、新旧両方から異端とされたミカエル・セルヴェトゥス(ミシェル・セルヴェ)をジュネーヴ市当局が火刑に処したことに、公然と賛意を表している。カルヴァンは、国家による異端者弾圧を容認し、場合によっては支持さえしたのである。
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