改革派教会の広がり
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「改革派教会の広がり」の解説
「カルヴィニズム」、「改革派教会」、および「長老派教会」も参照 カルヴァンは上記のように1540年代にジュネーヴで独自の宗教改革を実現して「改革派教会」発展の基礎を構築し、それは「ルター派教会」と並んでプロテスタントにおける二大教派となった。ルター派教会が「アウクスブルク信仰告白」とルターの「教理問答書」を信仰の規範とし、教会政治においては「監督制」を保持したのに対し、改革派教会では監督制を廃したうえで牧師に加えて教会員から選ばれた長老たちで「長老会」を組織し、それによって信徒の指導監督にあたる「長老制」を採用して各個別教会における信仰告白を重視する点が、両者の大きな相違である。 カルヴァンの思想は、彼の生前からスイスにとどまらず近隣の諸国に広まっていたが、その伝播の過程でニュアンスを失い、特定の要素が誇張されたり薄められたリした。ルター派の強いドイツではカルヴァン派はほとんど浸透しなかったが、スイスではカトリック信仰にとどまる地域も多く、ドイツ同様に教会分裂がみられたが、ツヴィングリとカルヴァンによって宗教改革が主導された経緯により、ルター派は浸透しなかった。宗教上の不和は厳然と存在する一方、スイスではヴィルヘルム・テルや聖ニコラウス(ニコラウス・フォン・フリューエ(ドイツ語版))は相変わらず「古き良き盟約者団」の象徴であり、国民的英雄として崇敬された。 スイスとそれに隣接する南西ドイツでは、きわだった対照性を示していた。スイスでは、ツンフト(商人ギルド)に代表される中下層の市民が都市における門閥支配を打破するとともに周囲の諸侯・修道院領を領域支配に組み込む契機として宗教改革が期待されたという側面があり、ここで重視されたのはカルヴィニズムであった。ツヴィングリ派から分離発展した再洗礼派はその信仰を守る信者のみで共同体を構成しようとし、農村部では自治運動と結びつくこともあった。それに対し、南西ドイツではシュマルカルデン戦争の結果、カール5世によって徹底的にツンフトが解体されて門閥支配が強化され、ここで公認されていたのはルター派であった。 フランスに対しては、生前のカルヴァンはジュネーヴから伝道者を派遣して祖国フランスの宗教改革を組織化しようと努め、彼の勧告にしたがってパリに改革教会が設立された結果、1561年末には670以上の改革教会がフランス国内で組織された。1559年には、フランス改革教会の最初の国民会議がパリで開催されている。フランスのカルヴァン派プロテスタントは「ユグノー」といわれたが、その広がりと同時に迫害も始まり、1562年には北東部のヴァシーでカトリック教徒による新教徒虐殺(ヴァシーの虐殺)が起こっている(詳細は後述)。 カルヴァン派はまた、ネーデルラント(低地地方)とくにオランダでは著しい影響をおよぼし、それは外国支配からの解放運動の大きな原動力となった(詳細は後述)。スコットランドにおいては、1540年代にこの国で最初にカルヴァン主義を奉じた聖職者が火刑に処せられ、カルヴァン派貴族が蜂起したものの、それも制圧された。ジュネーヴに一時亡命してカルヴァンの影響を強く受けたジョン・ノックスが1559年に帰国し、プロテスタントのスコットランド貴族を動かしてスコットランド教会(スコットランド長老派教会)を設立し、1560年にはノックスらの信仰告白(スコットランド信条)がスコットランド議会に承認されて「国教」の地位を獲得した。のちにそのなかでイングランド国教会を批判する勢力が、ピューリタン(清教徒)を形成した。ジョン・ノックスの改革派教会では信仰上の原理が政治上の規律とされるなどジュネーヴ的な改革がなされ、神政政治が一時実現した。当時のスコットランド各地では多くの聖堂が破壊され、偶像崇拝は徹底的に否定されている。信徒が牧師を選出している点では、この国の教会制度はむしろジュネーヴのそれよりも民主的であった。 イングランドでは、ロラード派の異端思想、ルター主義、反聖職者主義、反教皇主義などが混合して宗教改革の気運が非常に高まったが、国家主導で改革がなされた(詳細は後述)。
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