改革派の暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:57 UTC 版)
1566年、フランドルでカトリック教会や修道院を狙った暴動「オランダ人の反乱(英語版)」をきっかけに、その反乱が低地地方各地へと広まり80年戦争が始まった。フェリペが重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。この暴動は一見宗教的動機に隠されてはいるが、そのうちに深刻な経済的理由が存在していた。これは改革派がそれほど浸透していない低地地方北部でも暴動が起こっていることから明らかである。この年は北欧での大規模な戦争によってバルト海方面からの穀物流入が激減し、低地地方では食糧難と経済危機が発生しており、1567年8月、フェリペは事態の収拾を図るため、アルバ公に指揮権を与え軍隊による介入を指示し、1万ほどの軍勢とともに派遣した。アルバ公は「騒擾評議会」なる特別法廷を設置し、暴動の参加者を徹底的に弾圧した。さらに12月にはマルハレータに替わって執政になり、ネーデルラント貴族にこの暴動の責任を問うた。 1568年6月5日、異端撲滅の名の下に、エフモント伯ラモラール、ホールン伯フィリップを含む大貴族20人余りがブリュッセルで処刑された。この際、大貴族の一人であったオラニエ公ウィレム1世は1567年4月すでにドイツに逃れており無事だったが、彼ら亡命貴族の財産・領地の多くが没収された。1569年には十分の一税を導入して、スペインの財政改善のために低地地方に経済的圧迫をもたらした。
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