改革派との権力抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:14 UTC 版)
文政12年(1829年)に水戸藩主に就任した徳川斉昭はそれまでの門閥にこだわらず、自分の擁立に功があった下士層から藤田東湖、武田耕雲斎らの人材を多く登用し藩政改革に着手した。これに反発する門閥派が諸生党の起こりである。彼らは斉昭や改革派からの権力奪還の機会を伺っていたが、弘化元年(1844年)に斉昭が幕命で強制隠居させられ家督を嫡男の徳川慶篤に譲り謹慎を命じられると、年少の慶篤を補佐して藩政の中心となる。しかし斉昭は謹慎が解除されるや、慶篤を後見して藩政に復帰したため、門閥派は再び勢力を失ったかに見えた。安政5年(1858年)に大老井伊直弼が日米修好通商条約を独断調印すると、これを批判した斉昭は永蟄居を命じられる。これに対し水戸藩改革派が朝廷に運動し戊午の密勅が下されると、幕府はその返納を要求、密勅問題を巡って水戸藩内で返納を主張する門閥派が復活、これに反対する改革派急進派(激派)との対立が激化した。幕府の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたことにより威信を失墜した幕府は水戸藩改革派を断罪(安政の大獄)、それに反発した激派が桜田門外の変・坂下門外の変などを起こしてさらに弾圧され、改革派は力を失い、幕府に恭順する門閥派が藩内で勢力を強めた。
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