事態の収拾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:05 UTC 版)
時村の誅殺を命じたのは貞時であり、そのために貞時は火事の後、北鎌倉明月院・浄智寺近辺の山内亭から宝戒寺南西側の北条師時の屋敷に移り、時村の誅殺に成功する。しかし、北条庶流の反発は強く、「仰せ」によって時村を誅殺した実行部隊を「此事僻事(虚偽)なり」と処刑して収めようとした。 貞時の父、北条時宗はそれで反対勢力の力を削ぎ、かつ旨く収めたが、この嘉元の乱では周囲の北条庶流の反発は強く、収まりはしなかった。というのが『実躬卿記』にある「時村殺害は宗方の命令であるという噂に対処するため、貞時が師時亭で評定を…」という下りと見る事も出来る。 これを『鎌倉年代記』にある「討手陸奥の守宗宣、下野の守貞綱既に攻め寄せんと欲するの処に、宗方は殿中(師時の舘、禅閤同宿)の騒擾を聞き、宿所より参らるるの間…」と組合わせると、時村と共に北条庶流を代表していた大仏宗宣らが手勢を率いて宝戒寺近辺の殿中・北条師時の館の貞時に詰め寄り、その騒擾を察知した宗方が、これも手勢を率いて駆けつけようとしたところで大仏宗宣、宇都宮守貞、佐々木時清らに討たれる。 貞時は自身の責任を避け、これ以上の争乱を避ける為に、全ては宗方の陰謀ということにして、京に早馬を走らせ、全て終わったから「在京人ならびに西国地頭御家人等」は鎌倉に来てはならぬと伝言させる。それでも鎌倉には「尚逐日可有合戦之由」と、再び合戦が起こるという風聞が飛び交う緊張した状況が続き、定例の評定は事実上流会となり、京の公家には「関東しづかならず」と書かれる。そして更に翌月の7月22日に、宗方討伐の大将北条宗宣が、殺された北条時村の後任として連署に就任してやっと事態は沈静化した。
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