事態の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 11:08 UTC 版)
1953年12月25日21時25分、白田邨衆安道124号にあった1軒の木造家屋の2階にあった靴製造の作業場で灯油ランプをともしていたところ、不注意からその火種が毛布や製靴用の接着剤に引火して、出火した。火災発生後、まだ間もない段階では、火の勢いは決して強くはなかったが、近傍の30軒ほどの家屋に波及した。程なくして、強烈な北風が吹き、火勢をたちまちあちこちへと広げ、10分足らずのうちに数百戸に延焼した。22時、炎は白田邨から東湾と正街に向って広がり、火勢はますます収拾がつかなくなった。 火災発生時、消防局長だったウィリアム・ゴーマンは事態を重く見て、直ちに香港島からも消防車を海を渡って出動させ、後備の消防人員にも招集をかけて、火災現場の救援に当たらせた。しかし消防隊員たちが現場に到着した23時10分には、白田邨は既にことごとく焼き払われており、木造、石造を問わず家屋はすべてが灰燼に帰し、現場は一面が焼けた瓦礫となっていた。なお大火の余勢は残っており、12月26日の2時30分にようやく鎮火した。 当時の香港総督アレクサンダー・グランサム(英語版)のイギリス政府への報告では、この石硤尾の大火は多くの木造家屋の区域に及び、その範囲は白田上邨、白田下邨、石硤尾邨、窩仔上邨、窩仔下邨、大埔邨を含み、焼失面積は41エーカー、16.4ヘクタール相当に達したとされた。大火は6時間に及び、死者3人、負傷者51人を出し、焼失した木造家屋は2580軒で、およそ1万2000世帯、5万8203人が罹災し、帰る家を失った。
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