事態の打開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:30 UTC 版)
「1891年のメジャーリーグベースボール」の記事における「事態の打開」の解説
シーズン終了後にプレイヤーズ・リーグ騒動から痛手を受けたアメリカン・アソシエーションの加盟全球団の経営が行き詰まっている現状を見て、ここでナショナルリーグは一挙に問題の打開策を打ち出した。それがリーグの合併であった。急遽両リーグの首脳会談が開かれて合併が討議され、アメリカン・アソシエーションの4球団を吸収し、後の4球団を売却させる工作を始め、1891年12月にアメリカン・アソシエーションは正式にその全ての権利をナショナルリーグに譲渡して、ボルチモア・オリオールズ(1882年-1899年)、ワシントン・セネタース (1891-1899年)、セントルイス・ブラウンズ(後のカージナルス)、ルイビル・カーネルズ(1882年-1899年)はナショナルリーグに移り、他の4球団ボストン・レッズ(1890年-1891年)、コロンバス・ソロンズ(1889年-1891年)、ミルウォーキー・ブルワーズ(1891年)、フィラデルフィア・アスレチックス (1890-1891年)を売却させてこの年限りでアメリカン・アソシエーションは10年の歴史に幕を閉じた。 そしてナショナルリーグは翌1892年に8球団から12球団体制となり、この体制は1999年まで続いた。 ボストン・レッズはアメリカン・アソシエーションが解体され、ナショナルリーグには既にボストン・ビーンイーターズが加盟していたため、ナショナルリーグはボストン・レッズの参加を拒否した。そのため、ボストン・レッズのオーナーはナショナルリーグから13万5,000ドルの和解金の支払いを受けてチームは解体された。 キング・ケリーは、この年にボストン・レッズを離れて、同じアメリカン・アソシエーションのシンシナティ・ポーカーズを率いたが低迷して破綻したためシーズン途中でチームを離れた。そしてシーズン終盤にナショナルリーグのボストン・ビーンイーターズに移り、1893年にニューヨーク・ジャイアンツに移籍して、1893年限りで引退した。
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