カルヴァンの聖餐理解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:09 UTC 版)
ジャン・カルヴァンは、「聖晩餐においては、しるしとことがらとは,はっきり区別される.もしそうしないならば,キリストの天上の栄光は侵され,物的要素の偶像化が起こるのである」とした。「しかし,その味わう方法は,肉体の口を通してではなく,御霊を通じ,信仰を通して起こる」「もし,これと違うことが説かれ,しるしとことがらのある種の相互作用のようなものが主張されるならば,不敬虔な者も聖晩餐においてキリストの体を受けることになる.それはしかし不可能である.なぜなら,キリストのいましたもうところ,つねに,命を与える彼の御霊がいますからである」と述べた。「キリストの体と血は,選ばれた神の信仰者に対してと同じく,ふさわしくない者にも与えられるのである」が、「ふさわしくないものの頑なさは,神の賜物がその人に来ることが出来ないようにする」と唱えた(ウェストミンスター信仰告白では「彼らは主の体と血に対し罪を犯し,己れ自身の呪いを招く」とされている)。カルヴァンは「ふさわしさ」について、「なぜなら、われわれが己れ自身から己れの『ふさわしさ』を求めねばならぬということになるならば、われわれはもう駄目だからである。・・・・・・そこで、われわれが神にもたらすことができる唯一の、そして最善の『ふさわしさ』とはこれである。すなわち、かれの憐れみによって『ふさわしい』ものとされんがために、われわれ自身の無価値さと、さらに(言うならば)『ふさわしくなさ』を、かれの前に差し出すこと、われわれがかれにおいて慰められんがために、己れ自身においては絶望すること、われわれがかれによって立ちあがらせんがために、己れ自身としてへりくだること・・・・・・がそれである」と述べている。 従って、改革派は「回心を求める罪人を遠ざけたのではなく、回心もせず、感謝のかけらもなく、信仰すらまじめに求めない傲慢で不遜な者を遠ざけた」。
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