じゆう‐いし〔ジイウ‐〕【自由意志】
自由意志
自由意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 08:42 UTC 版)
詳細は「自由意志」を参照 心の哲学の文脈において、自由意志の問題は新たな重要性を持つようになった。このことは、少なくとも唯物論的決定論者にとって重要である。決定論者の立場では、「自然法則は完全に物質的世界の行く末を決定する。心的状態は、そして「意志」についてもまた、なんらかの物質的状態であるだろう。このことが意味するのは、人間の行動や決定が完全に自然法則によって決定されるということだ。」と考える。この論法をもっと先に進める者もいる。例えば「人々は自分自身では、何を欲し何をするか決定することができない。結局のところ、人々は自由ではない」と考える人がいるのである。 一方で、両立主義者(compatibilists)は、上記の議論を拒否する。この立場をとる人々は次のように言う。「『我々は自由か?』という問いは、我々が自由という語の意味を何にするか決定する場合にのみ答えることができる。自由であることの反対は『原因がある』ことではなく、『強制される』または『強要される』ということである。決定されていないというだけでは、自由であるというに十分ではない。自由な行為は、行為者がもし他のことを選んだとしたら、他の事をするのが可能だった場合にのみ、存在する。この意味で、人は決定論が真である場合でさえも自由であり得るのだ」と。 哲学史上、最も重要な両立主義者はデイヴィッド・ヒュームである。今日、両立主義の立場は、たとえばダニエル・デネットによって擁護されているし、二元的パースペクティブの立場から擁護する人にマックス・ヴェルマンがいる。 他方で、非両立主義者(incompatibilists)の中にも、自由意志を否定する議論を拒否する者たちが大勢いる。彼らは起因主義(originationism)と呼ばれるより強い立場で、意志の自由を信じている。これらの哲学者たちは世界の行方は自然法則によって完全には決定されないと主張する。少なくとも意志が決定される必然はない、それゆえに意志は潜在的に自由である。哲学史上、最も有力な非両立主義者はイマヌエル・カントである。非両立主義の立場に対する批判者は、非両立主義者が自由の概念を場合に応じて変えて用いていると批判している。批判者の主張は次のとおりである:「すなわち、もし我々の意志が何かによって決定されないならば、我々はまったく偶然に自分が何を望むかを望むだろう。そして我々が望んだものが純粋に偶発的なものであるならば、我々は自由ではない。つまり、もし我々の意志が何かによって決定されないのならば,我々は自由ではないのだ」
※この「自由意志」の解説は、「心の哲学」の解説の一部です。
「自由意志」を含む「心の哲学」の記事については、「心の哲学」の概要を参照ください。
自由意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 15:32 UTC 版)
自由意志について、デネットは両立主義者だが、1978年の著書『Brainstorms』の第15章「On Giving Libertarians What They Say They Want」では、リバタリアン主義者の見解と対立する、意思決定の二段階モデルを支持する議論を行っている。 私が提案する意思決定のモデルには、次のような特徴がある。すなわち、我々が重要な決定に迫られたとき、アウトプットがある程度非決定論的な熟考生成機から、一連の熟考群が生み出される。それらの一部は、無関係なものであるとして、意思決定主体により(意識的・無意識的に)ただちに却下される。却下されなかった熟考群は、意思決定に対して影響を及ぼしうるものとして主体によって選ばれたものであり、これらが推論プロセスに登場する。そして、もし主体が十分に合理的であれば、これらの熟考群は、主体の最終的な意思決定を予測し、説明する役割を果たす。 デネットの他にも二段階モデルを提唱した哲学者として、ウィリアム・ジェームズ、アンリ・ポアンカレ、アーサー・ホリー・コンプトン、ヘンリー・マーゲナウなどがいるが、デネットがこのモデルを支持する理由は次のようなものである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}熟考群を知性によって選別、却下、重み付けするというプロセスは、知性が意思決定の要因になっていることを意味する。 非両立主義をリバタリアン主義者が取り込むための適切な場所があるとすれば、このモデルは非両立主義をまさにその場所に取り込めていると考えられる。 生物工学的な観点から見て、意思決定がこのモデルに則って行われるとき、より効率的かつ合理的であると言える。 道徳教育が意思決定に対して全面的な決定要因であると認めることなしに、それでも道徳教育は何らかの影響をもたらす要因になるということをこのモデルならば許容できる。 おそらく最も重要な点は、我々は自らの道徳的決断について、自分がその決定主体であるという重要な直観を抱くが、このモデルはその直観をある程度説明できている、ということだ。 最後の理由。このモデルは、我々の道徳的決断を取りまく意思決定の複数性を裏付けているし、また、多くの場合に、我々が感じる自由意志の感覚を構成する要素として、どの行動を選ぶかについての最終的な決定は、熟考プロセスに影響を与える事前の決定に比べて、現象学的には重要性が低いということも示唆している。つまり、例えば、もうこれ以上熟考しない、熟考するのをやめる、という決定や、特定の思考経路は無視するという決定が、自由意志の感覚をより強く構成しているということである。 これらの事前もしくは副次的な決定が、我々が責任ある自由な意思決定主体であるという感覚を構成していると考えられる。大まかに言えば次のような仕組みでそうなっている。私がある重要な意思決定を迫られ、一定量の熟考を経た後、私は自分に向けてこうつぶやく。「もう十分だ。私はこの問題を十分熟考したので、これから行動しよう」と。このとき、私はもっと熟考でき得ると完全に知っているし、また行動の結果、自分の決定が間違っていたと判明するかもしれないことも完全に知っている。だが、どちらの場合でも、私は責任を受け入れているのである。 ロバート・ケインに代表されるリバタリアン主義者たちは、デネットのモデルを否定している。特に、ランダムな偶然が意思決定に直接的に関与してしまっていることにより、意思決定主体の動機と理由、性格と価値観、感情と欲求が除去されてしまうと彼らは考えているのである。彼らの主張によれば、もし偶然が意思決定の主要な原因であるならば、決定主体はそこから生み出される行動に対して責任を持ち得ないという。ケインは次のように述べる。 [デネットが認めるように、]因果的に非決定論的な熟考モデルは、リバタリアン主義者が自由意志に求めるものの全てを与えてくれるわけではない。というのも、どのような偶然的なイメージやその他の思考が自分の心に介入し、熟考に影響を与えるかを[主体は]完全にコントロールできるわけではないからだ。それらは自分の好きなように登場してくるだけである。[主体は]偶然の熟考が生じた後にいくらかコントロールできるにすぎない。 しかし、偶然はもはや全く関与しないのである。それ以降に起きること、主体がどう反応するかは、主体がすでに抱いている欲求や信念によって決定されているのである。なので、偶然の熟考の後においても、主体にはリバタリアン主義者の意味でのコントロール能力がないように思われる。リバタリアン主義者は、完全な責任性と自由意志に対して、これ以上のことを要求する。
※この「自由意志」の解説は、「ダニエル・デネット」の解説の一部です。
「自由意志」を含む「ダニエル・デネット」の記事については、「ダニエル・デネット」の概要を参照ください。
自由意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 13:40 UTC 版)
「デイヴィッド・ハートリー」の記事における「自由意志」の解説
ハートリーはこのように感覚現象を詳細に分析した後、こうしたエーテルによる振動に基づく連合から、記憶、想像力、推論力といった知的・認知的能力までも説明する。ロックの「観念連合」という用語の下で、「観念」は感覚を除く全ての心的状態を含むものとなっていると言える。例えば、純粋な無私の情(pure disinterested sentiment)なるものは、物理的振動によって引き起こされた快不快に基づく利己的な感情から由来したものでありながらも、他者に対する道徳的性質として実際に存在する、ということになる。 自発的行動もまた、物理的に見れば、「理念」(ideal)と運動振動(motory vibration)の、堅い結びつきから生まれるものであり、この点で自由意志をめぐる論争においては、ハートリーは決定論(determinism)の立場をとる。 自由意志が決定論的に理解されるというのは一見矛盾している(ハートリーは自由意志そのものを否定しているわけではない)が、ハートリーは個人は環境からの作用に由来する快不快に基づいて行動する存在でありながら、それが「賞罰」観念による動機に基づくものへと意識が高まる中で、宗教的義務観念が生まれ、最終的には神からの「期待」の中で宗教的自己が確立していくとした。このように、ハートリーは必然論的メカニズムに「合致するだけでなくそこから由来する」自由意志を規定することで、人間の精神と肉体の二元論的枠組みを一つの科学的法則の中で説明しなおそうとした。
※この「自由意志」の解説は、「デイヴィッド・ハートリー」の解説の一部です。
「自由意志」を含む「デイヴィッド・ハートリー」の記事については、「デイヴィッド・ハートリー」の概要を参照ください。
自由意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:55 UTC 版)
アウグスティヌスは、人間の自由意志についても論じていた。アウグスティヌスの自由意志の解釈を巡っては相反する2つの立場がある。1)アウグスティヌスは予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じたとする立場。2)救いにおける個人の自由意志を積極的に認めたとする立場。
※この「自由意志」の解説は、「アウグスティヌス」の解説の一部です。
「自由意志」を含む「アウグスティヌス」の記事については、「アウグスティヌス」の概要を参照ください。
自由意志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:42 UTC 版)
犯罪学の創始者であるチェーザレ・ロンブローゾは、犯罪は根源的に生物学的なものであり、犯罪者は完全に自由意志を欠いていると考えていたが、21世紀初頭の神経犯罪学者は中道的なアプローチを取っているようである。彼らは、生物学的要因だけが行動上の問題を引き起こすとは主張せず、行動は生物学と環境との相互作用の結果であると認識している。しかし、より決定論的な見解を持つ人物もいる。ある人物は次のように書き示す。「自由意志は存在するかもしれないが(単に現在の科学の範囲を超えているのかもしれない)、1つはっきりしていることがある。もし自由意志が存在するなら、それを運用する余地はほとんどない。遺伝子と環境によって形作られる巨大な神経回路網の上に乗っているのは、せいぜい小さな要因に過ぎない。実際、自由意志はあまりにも小さいため、最終的には、糖尿病や肺疾患などの身体的なプロセスについて考えるのと同じように、間違った意思決定について考えるようになるかもしれない」。
※この「自由意志」の解説は、「神経犯罪学」の解説の一部です。
「自由意志」を含む「神経犯罪学」の記事については、「神経犯罪学」の概要を参照ください。
「自由意志」の例文・使い方・用例・文例
- 私は自らの自由意志でそれをする
- その決定論者は、人間は自由意志を有していないと主張した。
- 自由意志で, 自ら進んで.
- 本人の自由意志で, 自分から進んで.
- 自由意志.
- それは彼が自由意志でしたことだ.
- それは彼が自分の自由意志でしたことだ.
- 自由意志
- 彼は自由意志で止めたのだ
- (彼に勧めはしない)自由意志でしたのだ
- 自由意志によって犯される罪(原罪と対比して)
- 互いに結婚していない者同士の自由意志による性交
- 自由意志の提供
- ジョン・カルバンの絶対予定説に反対して、人間の自由意志が神の主権と互換性を持つと考える17世紀の神学(その創設者J・アルミニウスの名をとって名づけられる)
- 自由意志の教理を信じる人
- 自由意志説を信じない人
- 当事者達の自由意志に基づいて創設される信託(一般に手続きは書類をもって進める)
- 当事者の自由意志で競争する
- 加入が自由意志に任される保険
自由意志と同じ種類の言葉
- 自由意志のページへのリンク