ターボル派
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ターボル派(ターボルは、チェコ語:Táborité/単数形:Táborita)は、中世のボヘミア王冠領に存在したフス派の過激派。
概要
ターボル派は15世紀にチェコのターボルを拠点とした。他にも多くの派閥が存在したが、ヤン・フスの火刑がきっかけになった事からまとめてフス派と呼ばれる。
特徴
ターボルの金鉱を資金源とし、キリストのミレニアムを宣言した。主人も奴隷も無く、資産は全て共有し、税の無い社会を目指した[1]。原始的無垢に戻れると約束した彼らについて、Murray Bookchinは無政府共産主義の初期の例とした[2]。ターボル派の理論は中世カトリックから見れば最も過激なものの1つだったが、彼らはスコラ学に沿って古い理論を破ろうとした。
代表的理論家
- ぺルフジモフのMikuláš Biskupec
- プロコプ・ヴェリキー:1434年のリパニの戦いで戦死した。
- Peter Kániš:アダム派にも支持された。軍事指導者のヤン・ジシュカに火刑に処された。
- Martin Húska[3][4][5]
ヤン・ジシュカ率いるターボル派
ヤン・ジシュカは貧しいボヘミア人で軍隊を編成し、神聖ローマ帝国のジギスムント率いる十字軍を迎え撃った。ジシュカは捕虜を皆殺しにすべきとは考えず、しばしば彼らに慈悲を与えた。彼の軍がジシュカに反抗して多くの捕虜を殺害した際には、彼らに許しを得る為に祈るよう命じた。ジシュカは申命記を一部参考に、兵法書の「Žižkův vojenský řád」を書いた。やがてターボル派が過激化するとジシュカは見切りを付け、より穏健なオレープ派をフラデツ・クラーロヴェーで率いるようになった。しかし、外敵からの度重なる攻撃に対しては、ターボル派とオレープ派は宗派の違いを超えて共同戦線を張る事が多かった。一度フス派が勝利を収めて外敵が除去されると、フス派内で争いが起きるようになった。
1434年5月30日、ターボル派はリパニの戦いで大敗し、1万8000人の兵の内1万3000人が戦死した。
1437年、ターボル派はジギスムント皇帝と講和した。
1457年、モラヴィア兄弟団がターボル派の思想を受け継いで結成された。
関連項目
脚注
- ^ Levinson, David; Christensen, Karen (2003). Encyclopedia of Community: From the Village to the Virtual World Vol 2. Sage. p. 23o 2016年11月13日閲覧。
- ^ Bookchin, Murray. The Ecology of Freedom: The Emergence and Dissolution of Hierarchy. pp. 207 - 208
- ^ Howard Kaminsky, A History of the Hussite Revolution (Wipf and Stock Publishers 2004 ISBN 978-1-59244631-5), p. 427
- ^ William H. Brackney, Historical Dictionary of Radical Christianity (Scarecrow Press 2012 ISBN 978-0-81087365-0), p. 21
- ^ Norman Cohn, The Pursuit of the Millennium (Random House 2011 ISBN 978-1-44810394-2), p. 220
参考資料
- The Hussite Wars (1419–36), Stephen Turnbull, Osprey Publishing ( ISBN 1-84176-665-8)
外部リンク
- Joan of Arc's Letter to the Hussites (23 March 1430) — In 1430, Joan of Arc dictated a letter threatening to lead a crusading army against the Hussites unless they returned to "the Catholic Faith and the original Light". This link contains a translation of the letter plus notes and commentary.
- The Hussite Wars
- The Bohemian War (1420–1434)
ターボル派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:43 UTC 版)
15世紀初頭の10年間に、ウィクリフ主義はボヘミアの土壌に移植されて広まった。ウィクリフ主義はフスの死までに、いわゆるフス主義として維持され、それからウトラキストに転じ、さらにターボルを拠点とするターボル派につながった。 フスはコンスタンス公会議で「ウィクリフの聖餐に関する考えには賛同しない」と主張したが、それが事実かは確かでない。ボヘミアの土壌で、ウィクリフの聖餐論は広く受け入れられた。まず、主の晩餐についてのウィクリフの教義は、1399年にはプラハにも広まったと考える根拠がある。聖餐論は1403年に禁止されたが、その後もさらに広がりをみせ、フスもそれを説き教えていた。 ただし、フスはウィクリフの聖餐論を単に説明しただけで、賛同はしていなかったという可能性も考えられる。この後に、聖餐論の教義は急進的なターボル派の一党を強く惹きつけ、ターボル派の唱える教義の中核となった。 フスの支持者はフス派として知られる。フス死後もボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。
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