アヴィニョン捕囚とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > アヴィニョン捕囚の意味・解説 

アビニョン‐ほしゅう〔‐ホシウ〕【アビニョン捕囚】


アヴィニョン捕囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 08:25 UTC 版)

アヴィニョン教皇庁
プロテスタント宗教改革
迫害の歴史
神権政治
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

アヴィニョン捕囚(アヴィニョンほしゅう)とは、キリスト教カトリックローマ教皇の座がローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 - 1377年)を指す。日本語では、アヴィニョン教皇と表記されることもある。古代バビロン捕囚になぞらえ、教皇のバビロン捕囚とも呼ばれた。

概要

1303年フランスフィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件)が起こった。教皇はこの直後に病死。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。

フランス人枢機卿ベルトラン・ド・ゴが教皇クレメンス5世になり、フィリップ4世は1307年テンプル騎士団を弾圧し、教皇は消極的な抗議を行うだけであった。1308年にはフィリップの意向で教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに座所を定めた。アナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、イタリアは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって侵略された(1310年 - 1313年)ため、教皇はイタリアに帰れず、フランス国内に滞在せざるを得なかった。

当時のアヴィニョンはフランス王家・カペー家の領内ではなくプロヴァンス伯領で、ナポリ王家であるアンジュー=シチリア家(カペー家分家)の所領であった。アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、教皇は全てフランス人である。1348年クレメンス6世はナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョンを買収、教皇領に組み入れた(フランス革命で没収)。

当時のアヴィニョンは田舎同然の地であり、教皇庁という巨大な官僚機構、すなわち数千もの新たな住民が流入したことは、地元のインフラにとって大きな負担となった。

イタリア人人文主義者ペトラルカがアヴィニョンに滞在しており、クレメンス6世からは聖職位や使節の地位を与えられたが、教皇庁の腐敗ぶりやローマを見捨てていることに憤りを感じていた。教皇にたびたびローマ帰還を訴え、詩や書簡の中でアヴィニョンを「西方のバビロン」と呼んでいる[1]

また、当地の状況についても以下のように書き残している。

「現存する〔都市の〕なかで、最も陰気で、人口過密で、治安が悪く、世界の汚いものがすべて集まったゴミ溜めのようだ。鼻が曲がりそうな悪臭に満ちた路地、いやらしい豚と唸り声をあげる犬……壁が揺れるほどの車輪の騒音、荷車一台で塞がれてしまう曲がりくねった通り。これらに対する吐き気を催すほどの嫌悪感は、とても言葉にできない。あまりにも雑多な人種、見るも哀れな乞食、鼻持ちならない金持ち連中!」 — [2]

アヴィニョン捕囚期の教皇

アヴィニョン捕囚から大分裂へ

およそ70年後の1377年、教皇グレゴリウス11世シエナのカタリナの助言によりローマに戻り[3]、アヴィニョン捕囚の期間は終わるが[4]、グレゴリウス11世は翌年に逝去した。ローマで新たに教皇ウルバヌス6世が選出されるが、間もなくフランス人枢機卿が選挙は無効だと宣言して、別に教皇クレメンス7世対立教皇)を選出した。こうして、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ教会大分裂)が起こる[5]

1409年ピサ教会会議でシスマ解消が図られたが失敗し、3人の教皇が鼎立して、教皇の権威は大きく揺らぎ、この分裂は1417年コンスタンツ公会議マルティヌス5世が選出されるまで続いた。

脚注

  1. ^ 岩波文庫・書簡集P221
  2. ^ 『黒死病 ペストの中世史』ジョン・ケリー著、野中邦子訳、中央公論新社、2008年、p.198
  3. ^ 荒木成子 著「カタリナ(シエナの)」、加藤周一 編『世界大百科事典』(改訂新版)平凡社、2014年。 
  4. ^ 『グローバルワイド最新世界史図表』(3訂)第一学習社、2020年、146頁。ISBN 9784804053158 
  5. ^ 全国歴史教育研究協議会 編『世界史用語集改訂版』(3版)山川出版社、2020年、103頁。 ISBN 9784634033061 

関連項目


アヴィニョン捕囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「アヴィニョン捕囚」の解説

14世紀に入るとフランス王教皇の関係は対立へと転じる財政難打開図った仏王フィリップ4世は、国内聖職者への課税図ってローマ教皇との対立深めた1302年状況打開求めたフィリップは、三部会フランス初の身分制議会)を開催してフランス国内の身分から支持得たその上で、翌1303年アナーニ事件引き起こしてローマ教皇ボニファティウス8世一時幽閉するなど追い込んで憤死に至らしめた。その後フランス人教皇クレメンス5世擁立させた上で1309年教皇庁ローマからアヴィニョン移転(アヴィニョン捕囚、「教皇のバビロン捕囚」)させ、フランス王権教皇対す優位性知らしめた。このことによって、のちの宗教改革の時代よりも早くフランス教会カトリック枠内ありながらローマ教皇からの事実上独立成し遂げたガリカニスム)。このカペー朝繁栄は続くかと思われたが、フィリップ4世死後に3人の息子あいついで急逝し断絶へと至った。 なお、フランス王位継承者は、サリカ法典により男系カペー家の子孫のみが継承許されている。以降フランス王家はヴァロワ家ブルボン家へと受け継がれるが、これらの家系カペー朝傍系である。その意味においては王政フランス王国)がフランス革命によって打倒されるまで、カペー家血筋続いている。(1814年以降ブルボン家オルレアン家含めると、その血統はさらに続くことになる。)

※この「アヴィニョン捕囚」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「アヴィニョン捕囚」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アヴィニョン捕囚」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アヴィニョン捕囚」の関連用語

アヴィニョン捕囚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アヴィニョン捕囚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアヴィニョン捕囚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランスの歴史 (改訂履歴)、教会のバビロニア捕囚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS