古代からアヴィニョン捕囚まで
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「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の記事における「古代からアヴィニョン捕囚まで」の解説
古代においてラテラノ大聖堂は「救世主大聖堂」と呼ばれ、ローマの多くの教会のランク付けの中で最上位に置かれ、信徒たちの敬意を集めた。ラテラノ大聖堂はローマ司教としての教皇の司教座聖堂(カテドラル)であることから、「全カトリック教会の司教座聖堂」「すべての教会の母」とも称される。 もともとこの場所にはローマ帝国の時代、ラテラヌス家という一族が豪華な邸宅を構えていた。ラテラヌスの一族は数人の皇帝につかえた。セクスティウス・ラテラヌスは一族の中から初めてコンスル(執政官)に任命された。その後、一族のプラティウス・ラテラヌスが執政官を勤めていた時、ネロ帝に対する反乱の容疑でとらえられ、邸宅と財産を没収された。 その後、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝の妹であったファウスタを娶ったときに、ラテラヌス家の邸宅を手にいれた。そこでファウスタが暮らしたため、「ドムス・ファウスタ」(ファウスタの家)と呼ばれるようになった。コンスタンティヌスは後にキリスト教徒たちにこの邸宅一式を譲った。キリスト教徒たちがこの建物を譲り受けたのはいつの頃かは定かではないが、歴史家たちは教皇ミルティアデスの時代、313年頃ではないかと考えている。ミルティアデスの時代、ドナティスト論争の決着のために教会会議が開かれた。そこでは事効論が採用され、人効論を異端的として退けた。以降、ラテラノ家のものだった邸宅に教皇が暮らすようになり、ラテラノ宮殿(教皇宮殿)と呼ばれるようになった。敷地内のバシリカは聖堂に転用されたが、後に拡張されてローマ司教である教皇の司教座聖堂(カテドラル)となった。 ラテラノ大聖堂の正式な献堂式は324年に教皇シルウェステル1世によって行われた。同時に世界の中心たるローマで最大の聖堂であることから、世界の母なる聖堂と称され、聖堂の中の聖堂としての栄誉を受けた。その後、10世紀に入ると洗礼堂が新築されたことの記念に、教皇セルギウス3世がこの聖堂を洗礼者ヨハネに再奉献した。12世紀のルシウス2世は聖堂と宮殿をあわせて福音記者ヨハネに奉献した。ラテラノ大聖堂は二人のヨハネを記念する聖堂として崇敬を集めた。 ミルティアデス以降の歴代教皇たちはラテラノ宮殿で暮らしたが、14世紀のフランス人教皇クレメンス5世はフランス王の意を受けて聖座をフランス領内のアヴィニョンに移すことを決定した。教皇庁がアヴィニョンに置かれていた間にラテラノ大聖堂と宮殿は荒れるに任され、1307年と1361年に二度の火災にあっている。アヴィニョンの教皇庁は修理にあてるようなにがしかの資金をローマに送金したが、かつてのような威容が保たれることはなかった。
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