古代からアヴィニョン捕囚までとは? わかりやすく解説

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古代からアヴィニョン捕囚まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 16:12 UTC 版)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の記事における「古代からアヴィニョン捕囚まで」の解説

古代においてラテラノ大聖堂は「救世主大聖堂」と呼ばれローマ多く教会ランク付けの中で最上位置かれ信徒たちの敬意集めたラテラノ大聖堂ローマ司教としての教皇司教座聖堂カテドラル)であることから、「全カトリック教会司教座聖堂」「すべての教会の母」とも称される。 もともとこの場所にはローマ帝国時代、ラテラヌス家という一族豪華な邸宅構えていた。ラテラヌスの一族数人皇帝つかえた。セクスティウス・ラテラヌスは一族の中から初めコンスル執政官)に任命された。その後一族のプラティウス・ラテラヌスが執政官勤めていた時、ネロ帝に対す反乱容疑とらえられ邸宅財産没収された。 その後コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝の妹であったファウスタ娶ったときに、ラテラヌス家の邸宅を手にいれた。そこでファウスタ暮らしたため、「ドムス・ファウスタ」(ファウスタの家)と呼ばれるようになったコンスタンティヌスは後にキリスト教徒たちにこの邸宅一式譲ったキリスト教徒たちがこの建物譲り受けたのはいつの頃かは定かではないが、歴史家たちは教皇ミルティアデス時代313年ではないか考えている。ミルティアデス時代ドナティスト論争決着のために教会会議開かれた。そこでは事効論が採用され、人効論を異端的として退けた以降、ラテラノ家のものだった邸宅教皇が暮らすようになり、ラテラノ宮殿教皇宮殿)と呼ばれるようになった敷地内バシリカ聖堂転用されたが、後に拡張されローマ司教である教皇司教座聖堂カテドラルとなったラテラノ大聖堂正式な献堂式324年教皇シルウェステル1世によって行われた同時に世界中心たるローマで最大聖堂であることから、世界の母なる聖堂称され聖堂の中の聖堂としての栄誉受けたその後10世紀に入ると洗礼堂新築されたことの記念に教皇セルギウス3世がこの聖堂洗礼者ヨハネに再奉献した。12世紀ルシウス2世聖堂宮殿あわせて福音記者ヨハネ奉献した。ラテラノ大聖堂二人ヨハネ記念する聖堂として崇敬集めたミルティアデス以降歴代教皇たちはラテラノ宮殿暮らしたが、14世紀フランス人教皇クレメンス5世フランス王意を受け聖座フランス領内のアヴィニョンに移すことを決定した教皇庁アヴィニョン置かれていた間にラテラノ大聖堂宮殿荒れるに任され1307年1361年二度火災にあっている。アヴィニョン教皇庁修理にあてるようなにがしか資金ローマ送金したが、かつてのような威容保たれることはなかった。

※この「古代からアヴィニョン捕囚まで」の解説は、「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の解説の一部です。
「古代からアヴィニョン捕囚まで」を含む「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の記事については、「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」の概要を参照ください。

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