古代からオスマン帝国までのモースル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:10 UTC 版)
「モースル」の記事における「古代からオスマン帝国までのモースル」の解説
モースル周辺は少なくとも8,000年前から人の居住があった。モースルの位置する北メソポタミアよりさらに北の高原地帯(アッシリア)はアッシリア王国誕生の地となったが、その最盛期を迎えたのはモースル周辺を首都とした時代だった。モースルはアッシリアによって、主要都市ニネヴェ(現在のニネワの町)の対岸に当たるチグリス川右岸で、クリートの丘の上にある砦として創られた。紀元前850年頃、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世は、モースルのすぐ南にあったニムルドの街を自分の首都を建設する地として選んだ。首都は一旦ドゥル・シャルキンに移ったが、紀元前700年頃、センナケリブ王はニネヴェを新しいアッシリアの首都とすることを決めた。モスルにあるクユンジクの土塁は、ペルシャやメソポタミア、シリアを征服した世界帝国アッシリアの最盛期を築いたセンナケリブ王とその曾孫アッシュールバニパル王の宮殿の跡である。またニネヴェは『旧約聖書』のヨナ書の舞台にもなるなど、その名はよく知られている。 アッシリア初期の砦の上に立てられたモースルは、アッシリア滅亡後ニネヴェの跡を継ぐ都会となり、ペルシャ帝国の中心からシリアやアナトリアを結ぶ道のチグリス川渡河点として栄えた。モースルは紀元前6世紀には重要な交易拠点となった。短期間ローマ帝国に支配された後、サーサーン朝ペルシア帝国の一部となった。 637年に第2代正統カリフウマル・イブン=ハッターブが率いるムスリムのアラブ人たち(アラブ帝国)がサーサーン朝に大打撃を与え、その年の内にムスリムの支配下に置かれた。イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝は、8世紀にモースルをメソポタミアの首都に定め、モースルは繁栄の絶頂を迎えた。 その後のアッバース朝時代も、モースルはインド、ペルシャ、地中海を結ぶ戦略的位置から重要な商業都市であり続けた。アッバース朝衰退後は890年にアラブ遊牧民(ベドウィン)のハムダーン朝がモースルを首都にジャズィーラを支配し、ペルシアから来たブワイフ朝と戦ったが、10世紀末にはブワイフ朝に屈し、990年にアラブ系のウカイル朝にモースルを奪われた。11世紀後半、この地はマリク・シャー率いるセルジューク朝に席巻されて征服されるが、セルジュークの急激な西方への拡張は西欧キリスト教諸国による十字軍を呼ぶことになる。 1127年、十字軍国家がシリアとパレスチナを支配していた時代、それまでセルジューク朝の地方政権(アタベク政権)が入れ替わり立ち代り治めていたモースルは、新しいアタベク・ザンギーによる強力な政権、ザンギー朝の中心となり、やがて十字軍への反攻の拠点となった。ザンギー朝はザンギー死後、モースルとアレッポ(シリア)の二つに分かれた。十字軍と戦ったシリア側に対し、メソポタミアのモースルの方はシリアに距離を置いていた。シリアのザンギー朝の跡を継いだサラディンは1182年にモースルを征服しようとして失敗した。その後、13世紀にフレグ率いるモンゴル帝国が侵攻してきた際、太守マリク・サーリフは反抗の意思を示したため、籠城戦の末に街は降伏し、住民は虐殺されモースル完全に破壊された。 後にオスマン帝国時代、ジャリーリー家の支配の下でモースルは再建されて再び重要都市となったが、かつてのような栄光は戻らなかった。オスマン帝国のモースル支配は、1623年にサファヴィー朝ペルシャの最盛期を築いたアッバース1世による征服で中断されたが、彼の死後に奪還し、第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国が崩壊する1918年まで及んだ。オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、そしてモースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。 モースルは、ネストリウス派キリスト教徒の歴史的な中心地で、ヨナを含む数名かの旧約聖書の預言者たちの墓所がある。ヨナの墓所はキリスト教徒とイスラム教徒の両方から重要視され、元々はネストリウス派教会だったが、現在はモスクとなっている。他にも、ニネヴェの滅亡を預言したナホムの墓所とされる墳墓(真偽不明)もある。
※この「古代からオスマン帝国までのモースル」の解説は、「モースル」の解説の一部です。
「古代からオスマン帝国までのモースル」を含む「モースル」の記事については、「モースル」の概要を参照ください。
- 古代からオスマン帝国までのモースルのページへのリンク