新アッシリア帝国とは? わかりやすく解説

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新アッシリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 13:49 UTC 版)

新アッシリア帝国Neo-Assyrian Empire)は、アッシリアの歴史において紀元前911年から紀元前609年にかけての時期を指して用いられる用語[3][4]であり、上メソポタミア地方を中心に勢力を拡大した鉄器時代のアッシリアは当時世界最大の帝国であった[1]。アッシリア人は帝国統治の基本的な技術を完成させ、その多くが後の様々な帝国に模倣された[5]。鉄製の武器で武装し、進化した軍隊を持ち、効果的な軍事技術を用いたのはアッシリア人が初めてである[6]


  1. ^ a b Taagepera 1978, pp. 182–189.
  2. ^ Turchin, Adams & Hall 2006, pp. 222–223.
  3. ^ The Cambridge Ancient History "The fall of Assyria (635–609 B.C.)"
    (アッシリアの滅亡(ケンブリッジ古代史))
  4. ^ Encyclopaedia Britannica "The Median army took part in the final defeat of the Assyrians in northern Mesopotamia (612–609); and, when the territory of Assyria was divided between Media and Babylonia, Media took Assyria with Harran."
    メディア軍はメソポタミア北部におけるアッシリアの最後の戦い(紀元前612~609年)に参加した。そして、アッシリアの領土がメディアとバビロニアにより分割された際、メディアはハッラーンを取った。(ブリタニカ百科事典「キュアクサレス」より)
  5. ^ Pollard, Tignor & Rosenberg 2015, p. 128.
  6. ^ a b c Mark 2014.
  7. ^ 古畑 2005, p. 69
  8. ^ 青島 2015, p. 17
  9. ^ Tadmor 1994, p. 29.
  10. ^ a b Gzella 2015, pp. 104–156.
  11. ^ Frye 1992, pp. 281–285.
  12. ^ a b アッシリア. コトバンクより2020年7月11日閲覧
  13. ^ Frahm 2017, p. 192.
  14. ^ "アッシリア国は、アッシリア・バビロニアの文献ではmat Aššur (ki)、「アッシュルの地」として知られ、その名を古代都市アッシュルから取っている。
    Encyclopædia Britannica, Volume II Slice VII - "Assur" entry. (1911). https://www.gutenberg.org/files/34209/34209-h/34209-h.htm 
    (ブリタニカ百科事典第2巻第7分冊(1911年版))
  15. ^ rinap/rinap4”. oracc.museum.upenn.edu. 2021年8月25日閲覧。
    (ORACC(Open Richly Annotated Cuneiform Corpus=注釈付き楔形文字オープンデータベース)。例として、エサルハドンの碑文22行目にアッシリアの表記としてAš-šur KIが用いられている。)
  16. ^ Maspero & Sayce 2005, p. 223"The name Anshar, softened into Aushar, and subsequently into Ashshur, was first applied to the town and then to the whole country"
    「アンシャルの名前はアーシャルに和らげられ、後にはアシュシュルへと変わったが、この名前は最初はこの街を、やがて国全体を表すようになっていった。」
  17. ^ Pongratz-Leisten 2015, p. 110.
  18. ^ Quentin 1895, p. 554.
  19. ^ Sumerian dictionary entry: Aššur [ASSYRIA (GN)]”. oracc.iaas.upenn.edu. 2021年8月26日閲覧。
    (ORACC(Open Richly Annotated Cuneiform Corpus=注釈付き楔形文字オープンデータベース)より。非常に単語数が多いので、「Aššur [ASSYRIA] 」というキーワードで検索をかけて参照のこと。
  20. ^ 前川 1998b, p. 188
  21. ^ a b c Colorado State University 2015.
  22. ^ a b c "Assyria, 1365–609 B.C." in Heilbrunn Timeline of Art History Department of Ancient Near Eastern Art, The Metropolitan Museum of Art, New York, (originally published October 2004, last revised April 2010)
    (『アッシリア 紀元前1365~609年』(ハイルブルン芸術史年表 メトロポリタン美術館 古代近東芸術部門、ニューヨーク。元々は2004年10月に出版されたもの。2010年に改訂))
  23. ^ Roux 1992, pp. 282–283.
  24. ^ Tile British Museum” (英語). The British Museum. 2021年9月4日閲覧。
    (大英博物館)
  25. ^ a b c Parpola 2004, pp. 5–22.
  26. ^ Black Obelisk, K. C. Hanson's Collection of Mesopotamian Documents
    (「黒色オベリスク」K.C.ハンソン)
  27. ^ en:Neo-Assyrian Empireから翻訳したが、この反乱の話はシャルマネセル3世にもシャムシ・アダド5世の記事にも載っておらず、英語版記事でも出典も示されていない。暫定的に掲載するが、確認が必要。
  28. ^ 現代の4月または5月に相当
  29. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記)第1列第1~5行目
  30. ^ Jones 1971, p. 77.
  31. ^ 旧約聖書 列王記下16:7-9
  32. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記)第1列第1~21行目
  33. ^ ティグラト・ピレセル3世が当時、自らをプルとは呼んでおらず、後世に付けられた名前ではないか、という説もある。ティグラト・ピレセル3世#出自を参照のこと。
  34. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記)第1列第1~27行目
  35. ^ 列王記下17:1-6、17:24、18:9-11
  36. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第1列第31~37行目
  37. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第1列第41~42行目
  38. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第2列第1~3行目
  39. ^ Frahm 2008, p. 15.
  40. ^ 列王記下第18章~第19章
  41. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第2列第12~23行目
  42. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第2列第26~31行目
  43. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第2列第36~45行目
  44. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第2列第46行目~第3列第6行目
  45. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第3列第13~24行目
  46. ^ Dalley 2007, pp. 63–66.
  47. ^ 旧約聖書の列王記下19:37によれば、ニスロク神に祈っている最中に、彼は二人の息子アドラメレクとサルエツェルによって殺され、その後この息子たちはウラルトゥへと逃れた。このことはイザヤ書37:38でも書かれているほか、歴代誌下32:21でも簡潔に述べられている。
  48. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第3列第39~42行目。同様の記述はABC14(エサルハドンの年代記)第1~4行目にもある。
  49. ^ 列王記上33:11
  50. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第4列第25行目及びABC14(エサルハドンの年代記)第28~29行目。
  51. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第4列第30~33行目及びABC14(エサルハドンの年代記)第31~32行目、37行目。
  52. ^ ABC1(ナボポラッサルからエサルハドンまでの年代記) 第4列第34~36行目及びABC14(エサルハドンの年代記)第34~39行目。
  53. ^ Lipschits 2005, p. 17.
  54. ^ Liverani 2013, p. 539.
  55. ^ Boardman 2008, p. 179.
  56. ^ Bradford 2001, p. 48.
  57. ^ Potts 2012, p. 854.
  58. ^ Lipschits 2005, p. 18.
  59. ^ Frahm 2017, p. 194.
  60. ^ Dandamayev 1987, pp. 806–815.
  61. ^ Dandamayev 2006.
  62. ^ Yildirim 2017, p. 52.
  63. ^ Radner 2019, p. 135.
  64. ^ a b Grant 2005, p. 19.
  65. ^ Reade 1998, p. 260.
  66. ^ Radner 2019, pp. 140–141.
  67. ^ Radner 2019, pp. 135–136.
  68. ^ Schneider & Adalı 2014, pp. 435–446.
  69. ^ Schuster 2018.
  70. ^ Sinha, Kathayat & Weiss 2019.
  71. ^ a b Parpola 1999.
  72. ^ Parpola 2004
    「紀元前2世紀末にセレウコス朝が崩壊したとき、その西部の生き残りはローマ帝国に併合された一方で、東部ではパルティアの支配の下で、明らかにアッシリア人の痕跡・アイデンティティのあるいくつかの半独立王国が次々と生まれた(オスロエネ、アディアベネ、ハトラ、アッシュル)。これらの王国はアッシリアの文化と宗教の伝統を不滅のものとしただけでなく、キリスト教を受容した。なぜなら、キリスト教の中心概念はアッシリアの宗教やイデオロギーの延長線上にあり、イエスや弟子たちのアラム的な類似のゆえに、本質的にアッシリア的に感じられたからである。」
  73. ^ Rollinger 2006.
  74. ^ Mark 2018.
  75. ^ a b c Parker 2001.
  76. ^ Mattila 2014.
  77. ^ Radner 2012.
  78. ^ Hart-Davis 2010, p. 80.
  79. ^ Grant 2005, pp. 12–13.
  80. ^ Healy 1991, p. 19.
  81. ^ N'Shea 2016, pp. 214–221.
  82. ^ Krejci 1990, p. 34.





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