カルカルの戦いとは? わかりやすく解説

カルカルの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 15:39 UTC 版)

カルカルの戦い

カルカルの戦いの碑文
戦争:アッシリアのシリア侵攻
年月日紀元前853年初頭
場所カルカル
結果:アッシリア軍の撤退
交戦勢力
新アッシリア帝国 ダマスカス
イスラエル王国
ハマテ
指導者・指揮官
シャルマネセル3世 ハダドエゼル英語版
アハブ
戦力
アッシリアの記録では100,000。現在ではこれは誇大であると見られている。 歩兵60,000以上
戦車4,000弱
騎兵3,000弱
損害
不明 戦車多数と歩兵14,000以上の死者?

カルカルの戦い(Battle of Karkar(or Qarqar))は、紀元前853年シャルマネセル3世率いる新アッシリア帝国(以下「アッシリア」)軍とシリア諸国の反アッシリア同盟軍との間で戦われた。古代オリエント史上有名な戦いの1つであり、この戦いの後、アッシリア軍の西方への拡大は一時頓挫した。

参戦した諸国

シャルマネセル3世統治下においてアッシリアは急激な領土拡大を続けていた。シリア地方はレバノンスギをはじめ重要物資の供給地であったほか、エジプトに到る通商路が通っていたため、たびたび大国の争奪戦が繰り広げられている土地であった。アッシリアがシリア近辺まで領土を拡大すると、それまで相互に争っていたシリア地方の諸国は同盟を結んでこれに対抗した。

アッシリア側の史料には「ハッティ(シリア)と海岸の12人の王」としてその同盟参加者が記録されている。参加者は以下の通り。

  1. ダマスカスハダドエゼル英語版が率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。
  2. ハマテイルフレニ英語版が率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。
  3. イスラエルアハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。
  4. キリキアのクウェ軍、歩兵500人。
  5. ムスリ[1]軍、歩兵1,000人。
  6. アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。
  7. アルワド王マタンバールが送った歩兵200人。
  8. ウサナタ軍、歩兵200人
  9. シアヌ王アドニバールが送った戦車30両、歩兵数千人。
  10. アラブギンディブ英語版が送った駱駝騎兵1,000騎。
  11. ベトルホブ[2]王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。

戦闘と結果

紀元前853年に西方遠征を開始したシャルマネセル3世はアレッポを経由してカルカルを略奪し、オロンテス川そばでこの同盟軍と遭遇した。アッシリア側の記録によればシャルマネセル3世は無数の戦車と14,000人の兵士を倒して勝利したと記録されている。だが、実際にはこの戦いの後にアッシリアがシリア地方を征服した形跡は無く、またこの戦いの後も繰り返しシリア地方への遠征を行っている事から、この戦いでアッシリアが勝利を得たとは考えられていない。

この戦いの結果、アッシリアの西方への領土拡大は停止した。そして当座の脅威から逃れたシリア諸国の同盟は崩れ、紀元前853年以降にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じ、その戦いでイスラエル王アハブが戦死することとなる。(参考:旧約聖書における編纂文書資料では、列王記上第20章と22章および歴代誌下第18章で、独自の内情経緯感覚に基づく記録がなされている。)

脚注

  1. ^ アッカド語のムスリ(Musri)は通常エジプト(当時はエジプト第22王朝)と訳される。しかし、この戦いでのムスリは北シリア地方の国と考える者もいる。
  2. ^ 正確にはアマヌスのルホブの子、と記述されている。

カルカルの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:03 UTC 版)

エジプト第22王朝」の記事における「カルカルの戦い」の解説

オソルコン2世時代もう一つ重要な事件アッシリアシリア侵攻である。当時アッシリア著し拡大期入っており、その王シャルマネセル3世は北シリア征服し南部シリアにも手を伸ばしつつあった。この事態対し当時シリア諸国ダマスカスイスラエルハマテ中心とした連合軍組織してアッシリア対応したが、エジプト軍もこの連合軍参加していたことがアッシリア記録残されている。 オソルコン2世がどの程度アッシリア脅威認識していたのか定かではないが、彼はアッシリアとの戦いにおいて主導権を握ることはなかった。アッシリアシリア地方連合軍紀元前853年、オロンテス河畔カルカル激突した(カルカルの戦い)が、この戦い参加したエジプト軍はわずか1000人であり、単位軍勢派遣しているシリア諸国の軍に比較して明らかに少ない。 ともかくもこの戦いでアッシリア撃退されシリア地方経由してエジプト攻撃される危険は一時的にせよ回避された。

※この「カルカルの戦い」の解説は、「エジプト第22王朝」の解説の一部です。
「カルカルの戦い」を含む「エジプト第22王朝」の記事については、「エジプト第22王朝」の概要を参照ください。

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