戦闘と結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/04 14:44 UTC 版)
紀元前853年に西方遠征を開始したシャルマネセル3世はアレッポを経由してカルカル市を略奪し、オロンテス川そばでこの同盟軍と遭遇した。アッシリア側の記録によればシャルマネセル3世は無数の戦車と14,000人の兵士を倒して勝利したと記録されている。だが、実際にはこの戦いの後にアッシリアがシリア地方を征服した形跡は無く、またこの戦いの後も繰り返しシリア地方への遠征を行っている事から、この戦いでアッシリアが勝利を得たとは考えられていない。 この戦いの結果、アッシリアの西方への領土拡大は停止した。そして当座の脅威から逃れたシリア諸国の同盟は崩れ、紀元前853年以降にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じ、その戦いでイスラエル王アハブが戦死することとなる。(参考:旧約聖書における編纂文書資料では、列王記上第20章と22章および歴代誌下第18章で、独自の内情経緯感覚に基づく記録がなされている。)
※この「戦闘と結果」の解説は、「カルカルの戦い」の解説の一部です。
「戦闘と結果」を含む「カルカルの戦い」の記事については、「カルカルの戦い」の概要を参照ください。
戦闘と結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:15 UTC 版)
「ヴェルブジュドの戦い」の記事における「戦闘と結果」の解説
両軍はヴェルブジュド近郊で野営を行っていたが、ウロシュ3世とミハイル3世の双方は援軍の到着を待ち、7月24日に休戦の交渉を始められた。ミハイル3世が休戦を決定した背景には援軍の未到着と食糧の不足という問題があり、ブルガリア軍は周辺に散らばり、村を巡って食糧を探し回っていた。しかし、夜間にセルビアの王子ステファン(ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン)が外国人傭兵を含んだ援軍を率いてウロシュ3世に合流すると、1330年7月28日の午前にウロシュ3世は協定を破ってブルガリアに攻撃を仕掛け、ブルガリア軍の不意を突いた。ウロシュ3世が率いる部隊はSpasovitsaの丘の上に陣取り、一方1,000人のカタルーニャの重装傭兵を含んだステファン王子の部隊はドラゴヴィシュティツァ渓谷を通過してShishkovtsiの村に向かった。 SpasovitsaとShishkovtsiの間に位置する、Bozhuritsaという場所が両軍の主戦場となった。奇襲を受けたブルガリア軍は混乱し、ミハイル3世は事態の収拾に努めるが既に手遅れであり、数で勝るブルガリア軍はセルビア軍の攻撃によって壊滅した。戦場に残ったブルガリア兵はなおも抵抗を続け、彼らの血によって川が赤く染まったとブルガリアの年代記は記録している。両軍とも多数の負傷者を出し、またブルガリア軍の野営地はセルビア軍の略奪を受けた。ミハイル3世は乗馬を失い、セルビア兵によって捕らえられ、セルビアの陣営に連行されたミハイル3世は負傷が悪化して7月31日に没した。しかし、その死因について、戦死、もしくはステファン王子によって殺害されたという異説もある。ミハイル3世の遺体はウロシュ3世によってスタロ・ナゴリチャネの聖ゲオルギオス教会(Church of St. George, Staro Nagoričane)に埋葬された。そして、ミハイル3世が死の直前に最後に祈祷を奉げていた場所にはウロシュ3世によって教会が建立され、今日もその教会は現存している。 戦闘から2日経過した7月30日、セルビア軍はコニャヴォ山脈に進軍するが、ベラウルの奮闘によってセルビア軍の進軍は食い止められる。ロヴェチの統治者イヴァン・アレクサンダルはIzvorの周辺に兵力を集中させ、ブルガリア国内への進路を封鎖した。最終的に、Izvorの近郊でウロシュ3世とベラウルは会談し、両国の間に和約が結ばれた。この時、ミハイル3世とアンナ・ネダの子イヴァン・ステファンをブルガリアの帝位に就けることが和平の条件とされた。二国間の国境線の変移はごく小さな規模のものだったが、戦後ブルガリアはセルビアのマケドニアへの進出を食い止めることができなかった。
※この「戦闘と結果」の解説は、「ヴェルブジュドの戦い」の解説の一部です。
「戦闘と結果」を含む「ヴェルブジュドの戦い」の記事については、「ヴェルブジュドの戦い」の概要を参照ください。
- 戦闘と結果のページへのリンク