戦闘と顕家の死とは? わかりやすく解説

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戦闘と顕家の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/29 06:04 UTC 版)

石津の戦い」の記事における「戦闘と顕家の死」の解説

しかし、北朝主力近江国から美濃入ったことを知った顕家は伊勢国逃れて軍勢立て直しを図る。顕家は2月21日大和国占領するが、7日後に般若坂の戦いで北朝桃井直常敗れて敗走するこのため青野ヶ原の戦い伊勢から駆けつけていた顕家の弟、北畠顕信軍勢男山入り、顕家は義良親王秘かに吉野送った後、河内国から和泉国転戦して戦力再建図り3月天王寺に軍を集結した兵を分け、顕信やその将兵救援するため差し向けた西上してきた南朝軍の軍勢旗印といえる親王もすでに吉野に遷し、兵を分け寡勢となっていた顕家の軍は、5月6日西暦5月25日)には石津堺浦焼討にして、細川顕氏日根野盛治現地北朝勢力尚も交戦続けた。これに対して尊氏の命で兵1万8千を率い男山の顕信に備えていた師直は、自ら兵を分け顕家討伐向かい5月16日西暦6月4日)に天王寺から堺浦向かって出撃、顕家の軍兵待ち受けていた。 そして、5月22日西暦6月10日)、堺浦両軍激突、顕家軍は善戦したものの寡勢加え長征疲労北朝方についた瀬戸内海水軍支援攻撃まで受けて死地に立たされ、顕家は兵200とともに石津北朝方に包囲され決死戦い続け吉野に向かうが、奮戦中に落馬。 ついに顕家は享年20歳という若さ討ち取られ、顕家の他、名和義高南部師行らの西上軍の有力武将も戦死南朝軍の主力壊滅した。これによって、南朝大打撃を受ける一方北朝方の室町幕府中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦い進めていくことになった

※この「戦闘と顕家の死」の解説は、「石津の戦い」の解説の一部です。
「戦闘と顕家の死」を含む「石津の戦い」の記事については、「石津の戦い」の概要を参照ください。

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