戦闘にいたるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
「田屋川原の戦い」について唯一記す「闘静記」は、この合戦のきっかけを文明7年(1475年)に加賀国守護富樫政親によって蓮如が吉崎を追い出されたことにあるとする。蓮如の吉崎退去に不満を抱いた加賀国石川・河北二郡の一向宗徒は連年一揆を起こして対抗したものの、富樫政親はこれを弾圧して首謀者の坊主・百姓10人あまりの首を切り、そのほかの者は国外に追い出された。加賀から追い出された宗徒の行き先こそが隣接する越中国砺波郡の瑞泉寺であり、坊主200人余りに加えて数えきれないほどの百姓町人が瑞泉寺に寄り集まったという。 しかしこれ以後も加州(加賀国)では合戦がやむことはなく、業を煮やした富樫政親は砺波郡を支配する福満(福光)城主石黒光義に以下のように申し送ったという。富樫政親からの要請を受けて、石黒光義は一族を集めて評定を開いたが、一族の意見はまちまちで対応はなかなか決まらなかった。そこで石黒光義は「近年一向宗蔓延り、ややもすれば国主に対し我促を働く。その上、瑞泉寺へ加州より逃集まる坊主ども、もし一揆を起こし加賀のごとく騒動に及べば、国の乱と申すものたり、まだ子の企て無き中に瑞泉寺を焼き滅ぼし、院主・坊主とも絡めとるべきなり」と述べて、2月18日に出陣することを決めた。また、石黒光義は育王仙(医王山)惣海寺の宗徒にも協力を要請したところ、惣海寺も近年一向流が広まったことで天台宗徒も日に日に一向宗に改宗していることを慣っていると語り、瑞泉寺討伐への協力に応えた。 石黒方は密かに戦支度を始めたものの、この計画はやかて瑞泉寺方にも伝わった。驚いた瑞泉寺蓮誓は竹部豊前らに相談し、当寺には堀や土手もなく、その上武具の類もないが如何にすべきかと問うた。これに対して一座の者たちは「坊主百姓にこのことを知らせて一戦に及び、もし味方軍が不利ならば栃原に引き上げて五箇山に隠れ、時節を待つべきである」と答えたという。そこで付近の坊主・百姓に石黒家との戦いが伝えられると、瑞泉寺には数えきれないほどの坊主・百姓が集まり始めた。また、富樫政親は瑞泉寺と密接な関係を有する本泉寺に対しても瑞泉寺への協力を控えるよう働きかけた。先述したように、蓮如の政治的立場を尊重する蓮乗は富樫の要請に応じて瑞泉寺への協力を行わなかった。
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