戦闘と講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/06 06:21 UTC 版)
1795年3月11日、マラーター軍とニザーム軍はカルダーの地で激突した。マラーター側の騎兵による攻撃は強力で、ニザーム側は内部不統一もあって有効な反撃もできず、その日のうちにマラーター側の勝利が決まった。 ニザームは砦に逃げたものの、ここにニザーム側も敗北を認め、13日からマラーター側と和平交渉を行った。ニザームはイスマーイール・ハーン・パンニーに交渉を任せ、ダウラト・ラーオ・シンディアの代理と話をつけようとしたが拒否されたため、この戦いに参加していたホールカル家の若者ヤシュワント・ラーオ・ホールカルに希望を託した。この交渉にはニザームのヒンドゥーの家臣で、アヒリヤー・バーイー・ホールカルとも友好な関係にあったチンターマン・ラーオ・カーニトカルが交渉にあたった。 4月10日、カルダーの戦いにおける講和条約カルダー条約が結ばれた。この条約では、ニザーム王国はマラーター王国にダウラターバード、アウランガーバード、アフマドナガル、ショーラープルなどの地を割譲し、3000万ルピーという多額の賠償金を支払うことが取り決められた。このうち、1797年にアフマドナガルはマラーター王国からシンディア家に割譲された。 また、これとは別にニザームはボーンスレー家に対して290万ルピーを支払うとともに、ニザームの領するベラール地方から得られる歳入の分割に合意した。また、フーシャンガーバードなどといった地域も割譲させられた。
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