医王山とは? わかりやすく解説

医王山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 23:24 UTC 版)

医王山
金沢城から望む医王山
標高 939.07[1] m
所在地 石川県金沢市
富山県南砺市
位置 北緯36度30分46秒 東経136度47分46秒 / 北緯36.51278度 東経136.79611度 / 36.51278; 136.79611[2]
山系 両白山地
初登頂 719年(泰澄大師)[3]
医王山の位置
プロジェクト 山
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医王山(いおうぜん)[注釈 1]は、石川県金沢市富山県南砺市にまたがる標高939m山塊である。白兀山、奥医王山及び前医王山などの山塊の総称で、最高点の奥医王山には一等三角点が設置されている[4]日本三百名山[5]及び新・花の百名山[6]に選定されている。

概要

地形

戸室山キゴ山と医王山の峰々
1984年、金沢市小立野台地より

金沢市街側から見ると、戸室山の背後に位置するため、なかなか全貌を眺めるのは難しい。

犀川に架かる桜橋から医王山を望む(石川県金沢市)

医王山は古来より火山と称されることが多いが、いわゆる第四紀火山ではなく、大部分が約1500万年前の新第三紀中新世の(おそらく海底での)火山活動で生じた医王山累層からなる。

大門山付近等北陸の山域に広く分布する岩稲累層などと並び、グリーンタフの一部とされる。

医王山累層は、火砕流火山灰溶岩流などからなり、夕霧峠には流紋岩溶岩が見られ、黒瀑山周辺には黒曜岩ないし真珠岩の溶岩がみられる。しかし、最も量が多いのは、火山灰や軽石が降り積もった流紋岩質凝灰岩で、夕霧峠から石川県側へ下る林道沿いによく見られる。

医王山累層の厚さは、場所によっては1000m以上あり、現在の医王山山塊を北限として、手取扇頂部を経て、福井県との県境付近の丘陵地まで分布している。またこの層は日本海側へ傾斜しており、金沢市街の下にも広がっていると考えられている。

よって医王山は、地質上は古い火山岩からなるが、侵食等が進み、本来の火山地形は失われていると考えられている。

医王山の鉱石としてはメノウやソロバン石と呼ばれるオパールが採れ、紫水晶孔雀石もかつて見られた。

見所としては、三蛇ケ滝(さんじゃがたき)、鳶岩(とんびいわ)、大沼(大池)、竜神池などが有名である。

自然

中腹の植生はコナラ主体であり、スギの植林が広く行われている。稜線沿いにはブナ純林が見られ、特に奥医王山周辺のブナ群集の規模が大きい。

花はキクザキイチゲショウジョウバカマイワナシエンレイソウオオイワカガミなどが見られ、山頂部にはチシマザサが多い。ヒメシャガササユリも稀に見られる。

眺望

東側

八乙女山牛岳が前山として見え、遠くには立山連峰白馬岳穂高連峰などが望める。麓には砺波平野散居村の景観が広がる。

南東側〜南側

人形山大笠山笈ヶ岳白山方面が望める。

歴史

  • 719年養老3年) - 白山を開いた泰澄大師が開山し、薬草が多いことから育王山にちなんで育王仙と名付けたのが始めとされる。
  • 722年(養老6年) - 当時の元正天皇が大病にかかり、泰澄大師がこの山の薬草を献上したところ快癒された。帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を賜わり、山には医王山と命名されたという。薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もある[3]
  • 1262年弘長2年) - 弘瀬郷地頭職を巡る訴訟の中で弘瀬郷内に柿谷寺という白山修験系の寺があり、現地の地頭家の氏寺で、医王山修験の宿所としても利用されたことが言及される。これ以後、戦国時代に至るまで医王山では武家の庇護を受けた修験系の寺院が繁栄し「医王山四十八坊」と称された[7]
  • 1481年文明13年) - この頃急速に勢力を拡大していた浄土真宗井波瑞泉寺を危険視した福光石黒家・医王山惣海寺が攻撃をしかけるも大敗した(田屋川原の戦い)。この時「医王山四十八坊」は焼失し医王山修験は衰えたが、石動山修験が進出して修験文化を継承した[8]
  • 藩政時代は医王石(戸室石)の産地だったため、前田家により一般人の立ち入りを禁止された山であった。
  • 1934年昭和9年) - 室生犀星が代表作である小説『医王山』を出版[3][9]
  • 1947年(昭和22年) - 第2回国民体育大会の登山競技がこの山で行われた。
  • 1975年(昭和50年)2月22日 - 富山県内4番目の医王山県立自然公園として県立自然公園に指定。
  • 1995年平成7年) - 田中澄江が『新・花の百名山』を出版し、この山とベニバナイチヤクソウなどの植物を紹介した。
  • 1996年(平成8年)3月29日 - キゴ山、白兀山などとともに医王山県立自然公園の一部として石川県内5番目の県立自然公園に指定。

登山

国民体育大会で最初に登山競技が行われた山である[10]。北端の大沼付近には、トンビの頭に似た流紋岩の岩場である鳶岩があるが、最大斜度40度の鎖場であるため、雨天時の登頂は避けるべきである。

登山道

各方面からの登山道が整備されている[9]

石川県側
  • 二俣道
  • 見上道
  • 白兀道
  • 小原道
  • 栃尾道
  • ナカオ新道
富山県側
  • 祖谷道
  • 横谷道

山小屋

  • 白兀平ヒュッテ - 夕霧峠の無人小屋
  • 国見ヒュッテ - 国見平

地理

  • 夕霧峠(菱広峠)
  • 見上峠
  • 横谷峠
  • 地蔵峠

河川

以下の源流の河川日本海へ流れる[4]

石川県側
富山県側

施設

石川県側
富山県側

その他

  • 奥医王山の山頂には「939-16記念事業 福光 標高939.16 郵便番号939-16 設置日1993.9.16」と書かれた記念碑があるが、これは、奥医王山の一等三角点の標高がかつては939.16mであり、富山県側の麓の町・福光町郵便番号(郵便区番号)が939-16(集配局:福光郵便局)と、一致していたことを記念したものである。
  • 兼六園夕顔亭には竹根石という熱帯性ヤシの一種マエダヤシの珪化木が置かれている。この珪化木は医王山層で稀に見られるもので、この層の形成年代である約2000万年前の石川県辺りはヤシ林の生える熱帯環境であったことが分かる[11]

脚注

注釈

  1. ^ 「ぜん」と読むのは、育王仙惣海寺と関連があるためとする説がある。
  2. ^ 森本川とも表記する。

出典

  1. ^ 基準点成果等閲覧サービスにおける一等三角点「医王山」の標高。
  2. ^ 日本の主な山岳標高(石川県の山)、国土地理院、2020年02月17日閲覧。
  3. ^ a b c 『日本の山1000』山と渓谷社、1992年、ISBN 4-635-09025-6
  4. ^ a b 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名: 福光(金沢)、国土地理院、2010年12月11日閲覧。
  5. ^ 『日本三百名山』毎日新聞社、1997年、ISBN 4-620-60524-7
  6. ^ 『新・花の百名山』、田中澄江(著)、文春文庫、1995年、ISBN 4-16-731304-9
  7. ^ 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』pp.248-249
  8. ^ 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』pp.251-261
  9. ^ a b 医王山県立自然公園パンフレット” (PDF). 石川県. 2016年11月15日閲覧。
  10. ^ 『ヤマケイアルペンガイド21白山と北陸の山』山と渓谷社、2000年、ISBN 4-635-01321-9
  11. ^ [石川県の地質 、p8、石川県教育センター、1993年 https://www.ishikawa-c.ed.jp/rika/kiyou/kiyou17.pdf]

参考文献

  • 新版 日本三百名山 登山ガイド(山と溪谷社、2014年)
  • 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』(富山県福光町、1993年)

関連項目

外部リンク


医王山 (曖昧さ回避)

(医王山 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 00:19 UTC 版)

医王山または醫王山(旧字体)

仏教寺院の場合、薬師如来(大医王、医王善逝といった別称がある)を本尊とする、または由来を持つ寺院の山号に用いられている。

仏教寺院

医王山

醫王山


医王山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)

田屋川原の戦い」の記事における「医王山」の解説

「闘静記」の記述従えば涌谷衆の奇襲によって惣海寺一帯焼かれたとされ、 実際に平成4年発掘調査発見され14-15世紀寺院遺構には焼け跡が見つかっている。文明13年の「田屋川原の戦い」で従来の医王山修験道世界一気滅亡した断定し難いが、前述したように「文明年間に医王山修験系から一向宗系に転じた」という伝承を持つ寺院多数現存することも事実であり、 文明年間が医王山修験寺院衰退時期であったことは間違いない。医王山修験寺院名残は、現南砺市才川七地区の医王山宗善寺が所蔵する「澄大使像」 などに今もみられる現代においても、医王山山中には「惣海寺跡」「海蔵寺跡」「開往寺跡」「桃源寺跡」「永福寺跡」などの地名残っている。また、桃源寺」は現魚津市に、「永福寺」は現富山市現存しており、それぞれ医王山山中出自の伝承有している。

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