医王山
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医王山 | |
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金沢城から望む医王山
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標高 | 939.07[1] m |
所在地 | 石川県金沢市 富山県南砺市 |
位置 | 北緯36度30分46秒 東経136度47分46秒 / 北緯36.51278度 東経136.79611度[2] |
山系 | 両白山地 |
初登頂 | 719年(泰澄大師)[3] |
医王山の位置 | |
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医王山(いおうぜん)[注釈 1]は、石川県金沢市と富山県南砺市にまたがる標高939mの山塊である。白兀山、奥医王山及び前医王山などの山塊の総称で、最高点の奥医王山には一等三角点が設置されている[4]。日本三百名山[5]及び新・花の百名山[6]に選定されている。
概要
地形

1984年、金沢市小立野台地より
金沢市街側から見ると、戸室山の背後に位置するため、なかなか全貌を眺めるのは難しい。
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医王山は古来より火山と称されることが多いが、いわゆる第四紀火山ではなく、大部分が約1500万年前の新第三紀中新世の(おそらく海底での)火山活動で生じた医王山累層からなる。
大門山付近等北陸の山域に広く分布する岩稲累層などと並び、グリーンタフの一部とされる。
医王山累層は、火砕流や火山灰、溶岩流などからなり、夕霧峠には流紋岩溶岩が見られ、黒瀑山周辺には黒曜岩ないし真珠岩の溶岩がみられる。しかし、最も量が多いのは、火山灰や軽石が降り積もった流紋岩質凝灰岩で、夕霧峠から石川県側へ下る林道沿いによく見られる。
医王山累層の厚さは、場所によっては1000m以上あり、現在の医王山山塊を北限として、手取扇頂部を経て、福井県との県境付近の丘陵地まで分布している。またこの層は日本海側へ傾斜しており、金沢市街の下にも広がっていると考えられている。
よって医王山は、地質上は古い火山岩からなるが、侵食等が進み、本来の火山地形は失われていると考えられている。
医王山の鉱石としてはメノウやソロバン石と呼ばれるオパールが採れ、紫水晶や孔雀石もかつて見られた。
見所としては、三蛇ケ滝(さんじゃがたき)、鳶岩(とんびいわ)、大沼(大池)、竜神池などが有名である。
自然
中腹の植生はコナラ主体であり、スギの植林が広く行われている。稜線沿いにはブナ純林が見られ、特に奥医王山周辺のブナ群集の規模が大きい。
花はキクザキイチゲやショウジョウバカマ、イワナシ、エンレイソウ、オオイワカガミなどが見られ、山頂部にはチシマザサが多い。ヒメシャガやササユリも稀に見られる。
眺望
- 東側
八乙女山や牛岳が前山として見え、遠くには立山連峰、白馬岳、穂高連峰などが望める。麓には砺波平野の散居村の景観が広がる。
- 南東側〜南側
歴史
- 719年(養老3年) - 白山を開いた泰澄大師が開山し、薬草が多いことから唐の育王山にちなんで育王仙と名付けたのが始めとされる。
- 722年(養老6年) - 当時の元正天皇が大病にかかり、泰澄大師がこの山の薬草を献上したところ快癒された。帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を賜わり、山には医王山と命名されたという。薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もある[3]。
- 1262年(弘長2年) - 弘瀬郷地頭職を巡る訴訟の中で弘瀬郷内に柿谷寺という白山修験系の寺があり、現地の地頭家の氏寺で、医王山修験の宿所としても利用されたことが言及される。これ以後、戦国時代に至るまで医王山では武家の庇護を受けた修験系の寺院が繁栄し「医王山四十八坊」と称された[7]。
- 1481年(文明13年) - この頃急速に勢力を拡大していた浄土真宗の井波瑞泉寺を危険視した福光石黒家・医王山惣海寺が攻撃をしかけるも大敗した(田屋川原の戦い)。この時「医王山四十八坊」は焼失し医王山修験は衰えたが、石動山修験が進出して修験文化を継承した[8]。
- 藩政時代は医王石(戸室石)の産地だったため、前田家により一般人の立ち入りを禁止された山であった。
- 1934年(昭和9年) - 室生犀星が代表作である小説『医王山』を出版[3][9]。
- 1947年(昭和22年) - 第2回国民体育大会の登山競技がこの山で行われた。
- 1975年(昭和50年)2月22日 - 富山県内4番目の医王山県立自然公園として県立自然公園に指定。
- 1995年(平成7年) - 田中澄江が『新・花の百名山』を出版し、この山とベニバナイチヤクソウなどの植物を紹介した。
- 1996年(平成8年)3月29日 - キゴ山、白兀山などとともに医王山県立自然公園の一部として石川県内5番目の県立自然公園に指定。
登山
国民体育大会で最初に登山競技が行われた山である[10]。北端の大沼付近には、トンビの頭に似た流紋岩の岩場である鳶岩があるが、最大斜度40度の鎖場であるため、雨天時の登頂は避けるべきである。
登山道
- 石川県側
- 二俣道
- 見上道
- 白兀道
- 小原道
- 栃尾道
- ナカオ新道
- 富山県側
- 祖谷道
- 横谷道
山小屋
- 白兀平ヒュッテ - 夕霧峠の無人小屋
- 国見ヒュッテ - 国見平
地理
峠
- 夕霧峠(菱広峠)
- 見上峠
- 横谷峠
- 地蔵峠
河川
- 石川県側
- 富山県側
施設
- 石川県側
- 医王山スキー場
- 医王山スポーツセンター
- 銀河の里キゴ山
- 金沢市キゴ山ふれあい研修センター
- 医王の里オートキャンプ場
- 医王山ビジターセンター
- 金沢市立医王山小中学校
- 富山県側
- イオックス・アローザ
- 国見ヒュッテ
- 三千坊展望台
- 医王権現堂
- 南砺市福光里山体育館
- 南砺市クレー射撃場
その他
- 奥医王山の山頂には「939-16記念事業 福光 標高939.16 郵便番号939-16 設置日1993.9.16」と書かれた記念碑があるが、これは、奥医王山の一等三角点の標高がかつては939.16mであり、富山県側の麓の町・福光町の郵便番号(郵便区番号)が939-16(集配局:福光郵便局)と、一致していたことを記念したものである。
- 兼六園夕顔亭には竹根石という熱帯性ヤシの一種マエダヤシの珪化木が置かれている。この珪化木は医王山層で稀に見られるもので、この層の形成年代である約2000万年前の石川県辺りはヤシ林の生える熱帯環境であったことが分かる[11]。
脚注
注釈
出典
- ^ 基準点成果等閲覧サービスにおける一等三角点「医王山」の標高。
- ^ 日本の主な山岳標高(石川県の山)、国土地理院、2020年02月17日閲覧。
- ^ a b c 『日本の山1000』山と渓谷社、1992年、ISBN 4-635-09025-6
- ^ a b 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名: 福光(金沢)、国土地理院、2010年12月11日閲覧。
- ^ 『日本三百名山』毎日新聞社、1997年、ISBN 4-620-60524-7
- ^ 『新・花の百名山』、田中澄江(著)、文春文庫、1995年、ISBN 4-16-731304-9
- ^ 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』pp.248-249
- ^ 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』pp.251-261
- ^ a b “医王山県立自然公園パンフレット” (PDF). 石川県. 2016年11月15日閲覧。
- ^ 『ヤマケイアルペンガイド21白山と北陸の山』山と渓谷社、2000年、ISBN 4-635-01321-9
- ^ [石川県の地質 、p8、石川県教育センター、1993年 https://www.ishikawa-c.ed.jp/rika/kiyou/kiyou17.pdf]
参考文献
- 新版 日本三百名山 登山ガイド(山と溪谷社、2014年)
- 『医王は語る : 医王山文化調査報告書』(富山県福光町、1993年)
関連項目
外部リンク
- ほっと石川旅ねっと 医王山 - 石川県観光連盟
- 金沢の自然を楽しもう 医王山 - 金沢市環境局
医王山 (曖昧さ回避)
(医王山 から転送)
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医王山または醫王山(旧字体)
仏教寺院の場合、薬師如来(大医王、医王善逝といった別称がある)を本尊とする、または由来を持つ寺院の山号に用いられている。
山
- 医王山(いおうぜん)、石川県金沢市と富山県南砺市にまたがる山
- 医王山県立自然公園、石川県と富山県にまたがる県立自然公園
- 医王山スキー場、金沢市にあるスキー場
- 医王山村、かつて石川県河北郡にあった村
- 金沢市立医王山小学校、金沢市にある小学校
- 金沢市立医王山中学校、金沢市にある中学校
仏教寺院
医王山
- 医王山遍照院長久寺、秋田県大館市にある寺院 - 遍照院 (大館市)
- 医王山双林寺、宮城県栗原市にある寺院 - 双林寺 (栗原市)
- 医王山江戸崎不動院東光寺、茨城県稲敷市にある寺院 - 江戸崎不動院
- 医王山清浄院上総国分寺、千葉県市原市にある寺院 - 上総国分寺
- 医王山薬寿院八王寺、埼玉県飯能市にある寺院 - 竹寺
- 医王山広岳院、東京都港区にある寺院 - 広岳院
- 医王山法徳院正福寺、神奈川県川崎市宮前区にある寺院 - 正福寺 (川崎市宮前区)
- 医王山常楽院松尾寺、長野県安曇野市にある寺院 - 松尾寺 (安曇野市)
- 医王山神宮寺、長野県松本市にある寺院 - 神宮寺 (松本市)
- 医王山顕光院、静岡県静岡市葵区にある寺院 - 顕光院
- 医王山油山寺、静岡県袋井市にある寺院 - 油山寺
- 医王山高田寺、愛知県北名古屋市にある寺院 - 高田寺 (北名古屋市)
- 医王山桃源寺、三重県熊野市にある寺院 - 桃源寺 (熊野市)
- 医王山多禰寺、京都府舞鶴市にある寺院 - 多禰寺
- 医王山薬師寺、大阪府河内長野市にある寺院 - 薬師寺 (河内長野市)
- 医王山感神院木山寺、岡山県真庭市にある寺院 - 木山寺
- 医王山無量寿院薬王寺、徳島県海部郡美波町にある寺院 - 薬王寺 (徳島県美波町)
- 医王山多宝院甲山寺、香川県善通寺市にある寺院 - 甲山寺
- 医王山三岳寺、佐賀県小城市にある寺院 - 三岳寺 (小城市)
- 医王山豊後国分寺、大分県大分市にある寺院 - 豊後国分寺
- 医王山正智院泰平寺、鹿児島県薩摩川内市にある寺院 - 泰平寺 (薩摩川内市)
醫王山
医王山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
「闘静記」の記述に従えば湯涌谷衆の奇襲によって惣海寺一帯は焼かれたとされ、 実際に平成4年の発掘調査で発見された14-15世紀の寺院遺構には焼け跡が見つかっている。文明13年の「田屋川原の戦い」で従来の医王山修験道の世界が一気に滅亡したと断定はし難いが、前述したように「文明年間に医王山修験系から一向宗系に転じた」という伝承を持つ寺院が多数現存することも事実であり、 文明年間が医王山修験系寺院衰退の時期であったことは間違いない。医王山修験系寺院の名残は、現南砺市才川七地区の医王山宗善寺が所蔵する「澄大使像」 などに今もみられる。 現代においても、医王山山中には「惣海寺跡」「海蔵寺跡」「開往寺跡」「桃源寺跡」「永福寺跡」などの地名が残っている。また、「桃源寺」は現魚津市に、「永福寺」は現富山市に現存しており、それぞれ医王山山中出自の伝承を有している。
※この「医王山」の解説は、「田屋川原の戦い」の解説の一部です。
「医王山」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。
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