医王山惣海寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
「闘静記」によると、「田屋川原の戦い」で福光石黒家に味方した医王山惣海寺は泰澄大師が建立した寺院であり、「四十八坊」と称される多数の堂舎・寺坊から成り立っていたとされる。後述するように「田屋川原の戦い」によって惣海寺は全焼し現存しないが、現在でも医王山周辺の広範な地域に堂舎・寺坊に由来する小字名が残っている。また、鎌倉時代の弘長2年(1262年)付の円宗寺領石黒荘に関する訴えの記録(「関東下知状」)が残っており、そこには「泰澄大師建立の白山末寺」柿谷寺の領有権を巡って地頭と円宗寺の間で訴訟があったことが伝えられている。この記録からは、中世の医王山には白山系修験道勢力が浸透していたこと、またその寺院の発展には地元の武家勢力が密接な関係を有していたことが看取され、このような関係が「田屋川原の戦い」における福光石黒家と惣海寺の同盟につながったとみられる。 なお、惣海寺が参戦した理由として「一向宗が広まることで天台宗徒も日に日に一向宗に改示していこと」が挙げられているが、これは現存する真宗系寺院の由緒からも確認される。
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