戦闘とナジーブ・ハーンの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 21:15 UTC 版)
「デリーの戦い (1757年)」の記事における「戦闘とナジーブ・ハーンの追放」の解説
8月10日、マラーター軍30,000人はデリー郊外に侵入、翌11日にローヒラー軍との間で戦闘が起きた。マラーター軍には帝国の宰相 ガーズィー・ウッディーン・ハーンとアフマド・ハーン・バンガシュが加わった。これに対し、ナジーブ・ハーンは精鋭の歩兵2,500人をクトゥブ・シャーとムッラー・アマーン・ハーンに預け、自身は5000人と砲兵を率いてこれを迎撃した。 戦いは2週間ほど続き、ナジーブ・ハーンはその結果マラーター軍に講和を申し入れた。ラグナート・ラーオはナジーブ・ハーンに保釈の代償として500万ルピーを払うように命じたが、ナジーブ・ハーンはこれを拒否、50万ルピーで了承させた。また、同時にデリーへ決して帰還しないこと、マラーターの城塞を決して奪取しないことを約束させられた。その後、ラグナート・ラーオ、マルハール・ラーオ、ガーズィー・ウッディーン・ハーンは会議したのち、ナジーブ・ハーンを釈放、デリーから追放することにし、交渉が締結された。 8月30日、ラグナート・ラーオは全軍にすべての戦闘を終結するよう命じた。
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