戦闘とオスマン帝国の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 06:09 UTC 版)
「露土戦争 (1806年-1812年)」の記事における「戦闘とオスマン帝国の政変」の解説
ロシアとトルコの戦闘はドナウ川沿岸のバルカン半島とカフカーズの東西両国境地帯で戦われたが、バルカンにおいては当初、アーヤーン(地方有力者)たちの活躍によって、むしろオスマン帝国有利の状況がつづいていた。しかし、改革派のスルタン(第28代皇帝)セリム3世によって派遣された「新秩序」(ニザーム・ジェディード)の軍隊(西洋式新軍隊)が前線に向けて進発すると、バルカン半島のアーヤーンたちは、1806年6月、エディルネに集結して洋式軍の進軍を阻止する構えをみせた。このような状況は、セリム3世の改革政治に不満をもつ保守派官僚たちをおおいに喜ばせた。守旧派の煽動によってイェニチェリを構成員とするボスポラス海峡警備兵が反乱を起こし、改革政治の全面停止、シャリーア(イスラーム法)の施行、セリム3世の退位を求めた。これにより、1807年5月、セリム3世は廃位され、ムスタファ4世が即位した。一方のロシアでは、一線を退いていた往年の名将ミハイル・クトゥーゾフが復帰し、ピョートル・バグラチオンとともにモルダヴィア軍を指揮して軍功をあげた。 この戦争中、オスマン帝国では幽閉中のセリム3世が新帝ムスタファ4世の手の者によって1807年に殺され、そのムスタファ4世も1808年、改革派の擁立するスルタン(第30代皇帝)マフムト2世に廃され、さらに死に追い込まれるなど政局が定まらなかった。1807年にはセルビア北部にあったオスマン帝国側の要塞ウジツェがセルビア人の手によって陥落するなど、しだいにオスマン側の敗色が濃くなっていった。
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