戦闘とモーガンの降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/10/22 02:33 UTC 版)
「セイリーンビルの戦い」の記事における「戦闘とモーガンの降伏」の解説
北軍のシャッケルフォード将軍はモーガン隊の追跡を続け、イリノイ州、ケンタッキー州、テネシー州、ミシガン州およびオハイオ州の騎兵、砲兵および騎乗歩兵の混成部隊に、ストイベンビルの民兵隊を率いていた。モーガンの疲れきった兵士達は孤立し、常に追跡を受ける中で敵地深く進んで行った。最終的にモーガン隊は7月26日にオハイオ州リスボンの近くセイリーンビルで側面を衝かれ遮断された。モーガン隊は勢力で劣ったまま、およそ3,000名の北軍に対して血路を開こうとした。その後の1時間半足らずの銃撃戦でモーガン隊は364名の損失(戦死23名と負傷者数名、および300名近くが捕虜になった)を出した。それでもモーガン将軍と少数の兵士が当初は捕獲を免れた。しかし、午後2時、この集団はセイリーンビルから約8マイル (13 km) 北東のウェストポイント近くで第9ケンタッキー騎兵連隊のジョージ・W・ルー少佐に降伏した。今日、降伏の地点には歴史銘盤が立てられている。 ルー少佐は後に、モーガン将軍が近付いてくる少佐をまず見た時に、捕まえていた捕虜の一人でオハイオ民兵のバーブリッジという名の大尉に降伏し、バーブリッジが直ぐにモーガンとその仲間の士官達を仮釈放し、その行為で非戦闘員としてケンタッキー州の家に戻ることを許した、と報告した。ルーはその「降伏」を認めず、モーガンが正式に北軍に降伏したのであると主張し、仮釈放を無視した。その部隊はモーガンをコロンバスに連れて行き、モーガンとその士官達の多くはオハイオ州刑務所に収監された。捕虜になった兵士達の多くはキャンプ・チェイスなど北部の他の戦争捕虜収容所に送られた。 1863年7月と8月、オハイオ州知事デイビッド・トッドはモーガンの降伏について審問を行った。トッド知事はバーブリッジ大尉は実際にはリスボンの1市民、ジェイムズ・バービックであり、オハイオ州民兵隊で士官を務めたことは無かったと判断した。つまりトッド知事は、バービックはモーガンに対して権限が無く、北軍に対するモーガンの降伏が成立すると裁定した。 もう一つの南軍の行動であるセントオールバンズ襲撃はセイリーンビルの戦いより更に北で起こった。1864年10月19日、南軍兵30名がカナダから入り込み、バーモント州セントオールバンズを襲った。しかし、この集団は正式な南軍の部隊ではなかった。ウェストポイントのモーガン将軍降伏地点は南北戦争で正式に編成された南軍部隊が到達した最北地点と考えられている。
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