流域の歴史とは? わかりやすく解説

流域の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/28 01:10 UTC 版)

オロンテス川」の記事における「流域の歴史」の解説

オロンテス川流れが急で船が航行できず、灌漑にもあまり使われないハマー付近では、川床低く取水できないため、古代よりノーリア呼ばれる水汲み水車使われ用水路をくみ上げていた)。 しかし「谷が南から北にまっすぐ走る」という地理条件が、オロンテス川流域歴史的に重要な陸路としてきた。北のアナトリアからの街道北東アッシリアアルメニアからの街道アンティオキア交わり、川に沿って古代ダムのあるホムスまで南へ走り、ここでダマスカス方面エルサレム方面西の地中海方面への街道分かれるオロンテス川沿った南北の道は、ギリシャペルシャから南のエジプト往復する道でもある。こうしたことから多く交易都市川沿いにできたほか、多く戦い起こってきた。紀元前1284年ラムセス2世エジプトムワタリヒッタイトオロンテス川沿いの都市国家カデシュ付近決戦行ったカデシュの戦い)。アッシリアシリア諸国の間に紀元前853年起こったカルカルの戦いもこの川沿い起きた637年には正統カリフ治めイスラム国家イスラム帝国)対東ローマ帝国アラブ人キリスト教徒連合軍との戦いアンティオキア付近を渡る近く起こり結果東ローマアンティオキア明け渡したオロンテス川自然の境界線にもなった。古代エジプトにとってはアムル人との北の境界線フェニキアの東の境界線となった12世紀十字軍建てたアンティオキア公国ムスリムアレッポ政権との境界にもなった。

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流域の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 14:28 UTC 版)

ガンジス川」の記事における「流域の歴史」の解説

インダス文明末期紀元前1900年から紀元前1300年ごろに、インダス川流域からの植民者ガンジス川ヤムナー川河間地方(ドアーブ)へとすみついた。やがてインダス文明崩壊すると、インド文明中心インダス川流域からガンジス川流域へと移動した紀元前1000年ごろに先住ドラヴィダ人かわってアーリア人ガンジス川流域住み着いた。 やがてガンジス流域中心に十六大国呼ばれる諸国成立し互いに覇権競うようになったこのころ時代ヴェーダ時代と呼ぶが、最も古いヴェーダであるリグ・ヴェーダにおいて神聖な川とされているのはシンドゥ七大河インダス川サラスヴァティー川であり、ガンジス川含まれていなかった。しかしそれに続く後期ヴェーダ時代編まれた『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の3つのヴェーダにおいてはガンジス川神聖な地位獲得することとなった十六大国抗争繰り返すが、やがてその中から現在のビハール州本拠とし、ラージャグリハ首都としたマガダ国と、現在のウッタル・プラデーシュ州北東部本拠としたコーサラ国強大化していった。 このころ当時支配的だったバラモン教対す批判として、ブッダによって仏教起こされ、またジャイナ教もこの地域起こった。やがてパータリプトラ首都移したマガダ国コーサラ国破ってガンジス流域統一したマガダ国はいくつもの王朝交代があったが、紀元前317年頃に成立したマウリヤ朝アショーカ王時代インドをほぼ統一し、初の統一王朝となったこの後王朝分立続いた後、330年ごろにパータリプトラにてグプタ朝成立し、再びガンジス流域統一したその後ガンジス流域統一したのはデリー本拠置いたデリー・スルターン朝及びムガル帝国である。ムガル帝国の衰退後はアワド太守ベンガル太守自立し各地治めたものの、やがて河口部コルカタ本拠置いたイギリス東インド会社1765年下流域であるベンガル支配権獲得して以後領域拡大しインド大反乱支配権取り上げられ以後全域イギリス領インド帝国となったその後1947年インド・パキスタン分離独立経て東パキスタンとなっていた下流域バングラデシュ独立戦争結果1971年バングラデシュとして独立し現在の政治領域確定した

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流域の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:34 UTC 版)

ウグラ川」の記事における「流域の歴史」の解説

ウグラ川中世前期からさまざまな公国境界であり、戦場にもなった。ウグラ河畔での戦いのうち、記録に残る最も古いものは1147年起こっている。 最も有名な戦い1480年の「ウグラ河畔の対峙」である。当時東西伸びるオカ川と、その延長線上で東西伸びるウグラ川モスクワ大公国リトアニア大公国国境であった大オルダアフマド・ハンリトアニア後援期待しながら軍を率いてモスクワへ遠征しようとしたが、イヴァン3世迎撃するためにウグラ川へ軍を集めた両軍交戦したウグラ川挟んでにらみ合ったが、増援続々現れるモスクワ側に対し大オルダ側にはリトアニアからの援軍がなかなか現れず、数週間後ついにアフマド・ハン退却決意した。この戦いは、ロシア対すモンゴルの支配(「タタールのくびき」)の終わりを告げるものであった1500年以後オカ川ウグラ川の線は南方タタール人からモスクワを守る防衛線となり、要塞多数築かれた。 祖国戦争フランス帝国ナポレオン1世ロシア侵攻)の際には、ウグラ河畔ユーフノフ付近ロシア詩人パルチザン指導者デニス・ダヴィドフ戦っている。第二次世界大戦独ソ戦でもウグラ川周辺戦いの場となった

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流域の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 14:04 UTC 版)

エチナ川」の記事における「流域の歴史」の解説

古代から開拓進んだ地であり、漢時代には現在より水量が豊かで、流域には張掖郡置かれた。居延海付近には属県として居延県が置かれ、その県城カラ・ホトの地にあった当地の名称は既に紀元前102年には確認され強弩都尉路博徳匈奴対す前線基地として築城したとされる歴史資料として著名な居延漢簡もこの付近発見されている。東西に走るシルクロード直交する南北交通幹線としても利用されエチナ川沿って城壁築かれ漢時代将軍である霍去病李陵川沿いに兵を進めるなど、主要な軍事拠点ともなった紀元前にはエチナ川利用した灌漑農業が行われ大い栄えたが、紀元後徐々に衰退し、やがて放棄された。 その後モンゴル系トルコ系チベット系各民族支配したが、11世紀には西夏がこの地を拠点とし、シルクロード交易により繁栄したマルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された「エチナ」とは、カラ・ホトのことであると比定される。また「エチナ」(エジン)とは、タングート語黒水音訳である。 西夏1226年滅びたが、カラ・ホトモンゴル帝国庇護のもとで繁栄続けた。しかし14世紀に明の攻撃により都城壊滅し滅びた。ただしカラ・ホト滅亡明による攻撃だけではなく洪水堆積によりエチナ川流路変わり得られなくなったためという説もある。 20世紀入り第二次世界大戦において日本関東軍もこの地に特務機関派遣しドイツとの空路を結びソビエト連邦外モンゴルからの防共目的とした飛行場の建設行っている。 中華人民共和国成立する地理的な条件から遊牧民対す前線基地として、ついで中ソ対立先鋭化すると、ソ連影響力強く受けたモンゴル人民共和国対す国境最前線基地としての重要性担い中国人民解放軍駐在するようになった。またエチナ川流域少なく人家疎らであることから中国の宇宙開発における最重要拠点のひとつとなり、酒泉衛星発射センター設けられた。センター張掖市カラ・ホト遺跡中間付近にあり、人民解放軍による厳重な警備が行われている。このため外国人によるエチナ川沿いの往来制限されている。

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流域の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 19:50 UTC 版)

ヘルレン川」の記事における「流域の歴史」の解説

ヘルレン川流域は、匈奴鮮卑など、モンゴル草原遊牧民族多く活動した地域である。チンギス・ハンは、その活動初期にはヘルレン川一帯活動範囲としており、伝説ではその墓所ヘルレン川流域にあるとされる。『元朝秘史』では客漣木漣 Kelürenren、『集史』では كلوران Kalūrān と音写され、13-14世紀には現在の Kherlen と異なり、rとlが入れ違って発音されていたようである。また『元史その他の当時漢語文献では克倫、怯緑連、怯呂連、曲緑憐などとも書かれた。 明の永楽帝は、モンゴルタタル部オイラト部に対す北方親征の際、ヘルレン川流域モンゴルの軍を破っている。また清の康熙帝ガルダン・ハーン対す親征行いヘルレン川でこれを破った。 表 話 編 歴 黒竜江/アムール川(サハリヤン・ウラ)水系 アムール川本流ゴリン川 - アニュイ川 - グル川 - トゥングースカ川 - ビラ川 - ビジャン川 - ザヴィタヤ川 - フマル川 - ウルシャ川 - アマザル川 スンガリ川水系スンガリ川(松花江) - 牡丹江 - 呼蘭河 - 拉河 - 阿什河 ノン水系ノン川(嫩江) - ガン川(甘河) - ネメル川(訥謨爾河) - ノミン川(諾敏河) - ヤル川(雅魯河) - トール川洮児河) - 霍アルグン川水系アルグン川 - ハイラル川海拉爾河) - ゲン川(根河) - ケルレン川 - ハルハ川 ゼヤ川水系ゼヤ川 - セレムジャ川 - ギリウイ川 - トミ川 - デプ川 ブレヤ川水系ブレヤ川 - ウルガル川 - ティルマ川 - ニマン川 - トゥユン川 アムグン川水系アムグン川 - ニメレン川 ウスリー川水系ウスリー川烏蘇里江) - ムレン川(穆棱河) - ソンガチャ川松阿察河) - ホール川 - ビキン川 - 大ウスルカ川(イマン川)

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