流域の歴史
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オロンテス川は流れが急で船が航行できず、灌漑にもあまり使われない(ハマー付近では、川床が低く取水ができないため、古代よりノーリアと呼ばれる水汲み水車が使われ用水路に水をくみ上げていた)。 しかし「谷が南から北にまっすぐ走る」という地理条件が、オロンテス川流域を歴史的に重要な陸路としてきた。北のアナトリアからの街道と北東のアッシリアやアルメニアからの街道がアンティオキアで交わり、川に沿って古代のダムのあるホムスまで南へ走り、ここでダマスカス方面やエルサレム方面や西の地中海方面への街道と分かれる。オロンテス川に沿った南北の道は、ギリシャやペルシャから南のエジプトへ往復する道でもある。こうしたことから多くの交易都市が川沿いにできたほか、多くの戦いも起こってきた。紀元前1284年、ラムセス2世のエジプトとムワタリのヒッタイトはオロンテス川沿いの都市国家カデシュ付近で決戦を行った(カデシュの戦い)。アッシリアとシリア諸国の間に紀元前853年に起こったカルカルの戦いもこの川沿いで起きた。637年には正統カリフの治めるイスラム国家(イスラム帝国)対東ローマ帝国・アラブ人キリスト教徒連合軍との戦いがアンティオキア付近を渡る橋の近くで起こり、結果、東ローマはアンティオキアを明け渡した。 オロンテス川は自然の境界線にもなった。古代エジプトにとってはアムル人との北の境界線、フェニキアの東の境界線となった。12世紀、十字軍の建てたアンティオキア公国とムスリムのアレッポ政権との境界にもなった。
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流域の歴史
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インダス文明末期の紀元前1900年から紀元前1300年ごろに、インダス川流域からの植民者がガンジス川とヤムナー川の河間地方(ドアーブ)へとすみついた。やがてインダス文明が崩壊すると、インドの文明の中心はインダス川流域からガンジス川流域へと移動した。紀元前1000年ごろに先住のドラヴィダ人にかわってアーリア人がガンジス川流域に住み着いた。 やがてガンジス流域を中心に十六大国と呼ばれる諸国が成立し、互いに覇権を競うようになった。このころの時代をヴェーダ時代と呼ぶが、最も古いヴェーダであるリグ・ヴェーダにおいて神聖な川とされているのはシンドゥ七大河のインダス川とサラスヴァティー川であり、ガンジス川は含まれていなかった。しかしそれに続く後期ヴェーダ時代に編まれた『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の3つのヴェーダにおいては、ガンジス川は神聖な地位を獲得することとなった。十六大国は抗争を繰り返すが、やがてその中から現在のビハール州を本拠とし、ラージャグリハを首都としたマガダ国と、現在のウッタル・プラデーシュ州北東部を本拠としたコーサラ国が強大化していった。 このころ、当時支配的だったバラモン教に対する批判として、ブッダによって仏教が起こされ、またジャイナ教もこの地域で起こった。やがてパータリプトラに首都を移したマガダ国がコーサラ国を破ってガンジス流域を統一した。 マガダ国ではいくつもの王朝交代があったが、紀元前317年頃に成立したマウリヤ朝はアショーカ王の時代にインドをほぼ統一し、初の統一王朝となった。この後は王朝分立が続いた後、330年ごろにパータリプトラにてグプタ朝が成立し、再びガンジス流域を統一した。 その後、ガンジス流域を統一したのはデリーに本拠を置いたデリー・スルターン朝及びムガル帝国である。ムガル帝国の衰退後はアワド太守やベンガル太守が自立し各地を治めたものの、やがて河口部のコルカタに本拠を置いたイギリス東インド会社が1765年に下流域であるベンガルの支配権を獲得して以後領域を拡大し、インド大反乱で支配権を取り上げられて以後は全域がイギリス領インド帝国領となった。 その後、1947年のインド・パキスタン分離独立を経て、東パキスタンとなっていた下流域がバングラデシュ独立戦争の結果1971年にバングラデシュとして独立し、現在の政治領域が確定した。
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流域の歴史
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ウグラ川は中世前期からさまざまな公国の境界であり、戦場にもなった。ウグラ河畔での戦いのうち、記録に残る最も古いものは1147年に起こっている。 最も有名な戦いは1480年の「ウグラ河畔の対峙」である。当時、東西に伸びるオカ川と、その延長線上で東西に伸びるウグラ川はモスクワ大公国とリトアニア大公国の国境であった。大オルダのアフマド・ハンはリトアニアの後援を期待しながら軍を率いてモスクワへ遠征しようとしたが、イヴァン3世は迎撃するためにウグラ川へ軍を集めた。両軍は交戦した後ウグラ川を挟んでにらみ合ったが、増援が続々と現れるモスクワ側に対し、大オルダ側にはリトアニアからの援軍がなかなか現れず、数週間後ついにアフマド・ハンは退却を決意した。この戦いは、ロシアに対するモンゴルの支配(「タタールのくびき」)の終わりを告げるものであった。 1500年以後、オカ川・ウグラ川の線は南方のタタール人からモスクワを守る防衛線となり、要塞が多数築かれた。 祖国戦争(フランス帝国のナポレオン1世のロシア侵攻)の際には、ウグラ河畔のユーフノフ付近でロシアの詩人・パルチザン指導者デニス・ダヴィドフが戦っている。第二次世界大戦の独ソ戦でもウグラ川周辺は戦いの場となった。
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流域の歴史
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古代から開拓の進んだ地であり、漢時代には現在より水量が豊かで、流域には張掖郡が置かれた。居延海付近には属県として居延県が置かれ、その県城はカラ・ホトの地にあった。当地の名称は既に紀元前102年には確認され、強弩都尉の路博徳が匈奴に対する前線基地として築城したとされる。歴史資料として著名な居延漢簡もこの付近で発見されている。東西に走るシルクロードに直交する南北の交通幹線としても利用され、エチナ川に沿って城壁が築かれ、漢時代の将軍である霍去病や李陵も川沿いに兵を進めるなど、主要な軍事拠点ともなった。紀元前にはエチナ川を利用した灌漑農業が行われ大いに栄えたが、紀元後は徐々に衰退し、やがて放棄された。 その後はモンゴル系、トルコ系、チベット系の各民族が支配したが、11世紀には西夏がこの地を拠点とし、シルクロードの交易により繁栄した。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された「エチナ」とは、カラ・ホトのことであると比定される。また「エチナ」(エジン)とは、タングート語で黒水の音訳である。 西夏は1226年に滅びたが、カラ・ホトはモンゴル帝国の庇護のもとで繁栄を続けた。しかし14世紀に明の攻撃により都城が壊滅し滅びた。ただしカラ・ホトの滅亡は明による攻撃だけではなく、洪水や堆積によりエチナ川の流路が変わり水を得られなくなったためという説もある。 20世紀に入り、第二次世界大戦においては日本の関東軍もこの地に特務機関を派遣し、ドイツとの空路を結びソビエト連邦と外モンゴルからの防共を目的とした飛行場の建設を行っている。 中華人民共和国が成立すると地理的な条件から遊牧民に対する前線基地として、ついで中ソ対立が先鋭化すると、ソ連の影響力を強く受けたモンゴル人民共和国に対する国境の最前線基地としての重要性を担い、中国人民解放軍が駐在するようになった。またエチナ川流域は雨が少なく人家が疎らであることから中国の宇宙開発における最重要拠点のひとつとなり、酒泉衛星発射センターが設けられた。センターは張掖市とカラ・ホト遺跡の中間付近にあり、人民解放軍による厳重な警備が行われている。このため外国人によるエチナ川沿いの往来は制限されている。
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流域の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 19:50 UTC 版)
ヘルレン川流域は、匈奴や鮮卑など、モンゴル草原の遊牧民族の多くが活動した地域である。チンギス・ハンは、その活動の初期にはヘルレン川一帯を活動範囲としており、伝説ではその墓所もヘルレン川の流域にあるとされる。『元朝秘史』では客魯漣木漣 Kelüren Müren、『集史』では كلوران Kalūrān と音写され、13-14世紀には現在の Kherlen と異なり、rとlが入れ違って発音されていたようである。また『元史』その他の当時の漢語文献では克魯倫、怯緑連、怯呂連、曲緑憐などとも書かれた。 明の永楽帝は、モンゴルのタタル部とオイラト部に対する北方親征の際、ヘルレン川流域でモンゴルの軍を破っている。また清の康熙帝もガルダン・ハーンに対する親征を行い、ヘルレン川でこれを破った。 表 話 編 歴 黒竜江/アムール川(サハリヤン・ウラ)水系 アムール川本流ゴリン川 - アニュイ川 - グル川 - トゥングースカ川 - ビラ川 - ビジャン川 - ザヴィタヤ川 - フマル川 - ウルシャ川 - アマザル川 スンガリ川水系スンガリ川(松花江) - 牡丹江 - 呼蘭河 - 拉林河 - 阿什河 ノン川水系ノン川(嫩江) - ガン川(甘河) - ネメル川(訥謨爾河) - ノミン川(諾敏河) - ヤル川(雅魯河) - トール川(洮児河) - 霍林河 アルグン川水系アルグン川 - ハイラル川(海拉爾河) - ゲン川(根河) - ケルレン川 - ハルハ川 ゼヤ川水系ゼヤ川 - セレムジャ川 - ギリウイ川 - トミ川 - デプ川 ブレヤ川水系ブレヤ川 - ウルガル川 - ティルマ川 - ニマン川 - トゥユン川 アムグン川水系アムグン川 - ニメレン川 ウスリー川水系ウスリー川(烏蘇里江) - ムレン川(穆棱河) - ソンガチャ川(松阿察河) - ホール川 - ビキン川 - 大ウスルカ川(イマン川)
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