コーサラ国とは? わかりやすく解説

コーサラ国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/09 01:46 UTC 版)

コーサラ国
未詳 (紀元前1100年頃) - 未詳 (紀元前500年頃)

後期ヴェーダ時代のコーサラ国およびその他の国々
宗教 ヴェーダ教
ヒンドゥー教
仏教
ジャイナ教
首都 アヨーディヤー
シュラーヴァスティー
Janak
不明 - 不明 イクシュヴァーク
不明 - 不明 マハーコーサラ
不明(紀元前6世紀 - 紀元前5世紀) - 不明(紀元前6世紀 - 紀元前5世紀) プラセーナジット
不明(紀元前6世紀 - 紀元前5世紀) - 不明(紀元前6世紀 - 紀元前5世紀) ヴィドゥーダバ
変遷
建国 未詳(紀元前1100年頃)
マガダ国に併合 未詳(紀元前500年頃)
コーサラ王(発行の銅貨が)確認 ― 紀元前1世紀頃

コーサラ国(もしくはコーサラ王国、: Kosalaサンスクリット語: कोसल)は、古代インドの王国で、その版図はおおむねアワド地方[1]、つまり現在のインドウッタル・プラデーシュ州に相当する。後期ヴェーダ時代にジャナパダ英語版(Janapada)と呼ばれる小国(領域)群のひとつとして勃興し、近隣のヴィデーハ英語版国と交流があった[2][3]仏教経典の『増支部』(漢訳仏典における『阿含経』の1つ『増一阿含経』に相当)や、ジャイナ教の教典の『バガヴァティー・スートラ英語版』によれば、コーサラ国は紀元前6世紀から5世紀における十六大国のひとつに数えられ[4]、文化的・政治的に大国の地位を得ていた。しかし、マガダ国との一連の戦争により弱体化し、紀元前4世紀には最終的に併合されてしまった。

コーサラ国には、アヨーディヤーサケット英語版(Saket)、シュラーヴァスティー(漢訳:舎衛城)の3大都市をはじめ、セータヴィヤ(Setavya)、ウカッタ(Ukattha)[5]、ダンダカッパ(Dandakappa)、ナラカパナ(Nalakapana)、パンカダ(Pankadha)などの町があった[6]。(ヒンドゥー教の聖典)プラーナ文献や、叙事詩ラーマーヤナ』によれば、コーサラ国の首都は、イクシュヴァーク王の治世下においてはアヨーディヤー[7]十六大国時代(紀元前6~5世紀)においてはシュラーヴァスティーであった[8]マウリヤ朝滅亡後の時代(紀元前2~1世紀)には、コーサラ王は(再び)アヨーディヤーにおいて硬貨を発行していた。

プラーナ文献の時代

コーサラ国の首都シュラーヴァスティーの市壁跡

コーサラは、初期のヴェーダ文献には言及されていないが、『シャタパタ・ブラーフマナ』や『カルパ・スートラ英語版』など後期の文献においては、ひとつの地域として言及されている[9]

十六大国時代のコーサラ国

『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、プラーナ文献などによれば、コーサラ国の王家はイクシュヴァーク王に遡るとされている。プラーナ文献にはイクシュヴァーク王からプラセーナジット王までの王の名が記されている[10]。『ラーマーヤナ』によれば、ラーマが首都アヨーディヤーからコーサラ国を支配したとされる。

仏教経典の『マッジマ・ニカーヤ』(中阿含経)には、ゴータマ・ブッダがコーサラ国の者である[11]こと(コーサラ国が、ゴータマ・ブッダの出身と信じられている釈迦族を属国としていたこと)[12]ジャイナ教において24番目(にして最後)のティールタンカラ(祖師)であるマハーヴィーラがコーサラで説法をしたことが述べられている。マハーコーサラ王の時代に、近隣のカーシー国を征服・併合した[13]。マハーコーサラ王の後を継いだのがプラセーナジット王であり、ゴータマ・ブッダを信奉していた。プラセーナジット王が不在の間、大臣のディーガ・チャラヤナ(Digha Charayana)が息子のヴィドゥーダバを王位につけた[14]。それから遠からず、コーサラ王国は隣国のマガダ国に併合された。

マウリヤ朝以前

イクシュヴァーク王朝英語版アワド地方のコーサラの民を治めていた[15]マガダ国ハリヤナ王朝英語版アジャータシャトル王との戦いに敗れた[15]

マウリヤ朝期

マウリヤ朝の時代、コーサラはコーサンビー総督の支配下にあったと考えられている[16]マウリヤ朝の王チャンドラグプタが発行したと考えられている、ソガウラ(Sohgaura:インドウッタル・プラデーシュ州の地名)の銅板の銘には、シュラーヴァスティーにおいて飢饉があり、これについての官僚の対策が描かれている[17]。サンスクリット文献『ガルガ・サンヒター英語版』の「ユガ・プラーナ英語版」の章では、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタ英語版の治世に、(コーサラの)サケット英語版が、ヤヴァナ(Yavana:インド・グリーク朝アレクサンダー大王以後もインドにとどまったギリシャ人の国))に侵攻・占領されたことが記されている[18]

マウリヤ朝以後

マウリヤ朝以後の時代におけるコーサラの支配者の名は、彼らによって発行された四角形の銅貨によって知ることができる。その大部分はアヨーディヤーで発見された[19] 。ムラデーヴァ(Muladeva)、ヴァユデーヴァ(Vayudeva)、ヴィシャカデーヴァ(Vishakhadeva)、ダナデーヴァ(Dhanadeva )、ナラダッタ(Naradatta)、ジェシュタダッタ(Jyesthadatta)、シヴァダッタ(Shivadatta)の名が挙げられる。銅貨にあるムラデーヴァがシュンガ朝ヴァスミトラ英語版を殺害したムラデーヴァかどうかは解明されていない(歴史学者のジャガナート(Jagannath)が解明を試みた)[20] 。ダナデーヴァ王は、アヨーディヤーの碑文におけるダナデーヴァ王(紀元前1世紀)であると同定されている。このサンスクリット語の碑文において、カウシキプトラ・ダナデーヴァ王(King Kaushikiputra Dhanadeva)は父ファルグデーヴァ(Phalgudeva)の記念のため「ケタナ(ketana)」(旗手)の役職を設けたこと、彼自身がシュンガ朝プシャミトラ王から数えて6代目にあたることが記されている[21][22]

関連項目

出典

[脚注の使い方]
  1. ^ Mahajan 1960, p. 230.
  2. ^ Samuel, Geoffrey (2010), The Origins of Yoga and Tantra: Indic Religions to the Thirteenth Century, Cambridge University Press, pp. 61–63 .
  3. ^ Michael Witzel (1989), Tracing the Vedic dialects in Dialectes dans les litteratures Indo-Aryennes ed. Caillat, Paris, 97–265.
  4. ^ Raychaudhuri 1972, pp. 85–6.
  5. ^ Raychaudhuri 1972, p. 89.
  6. ^ Law 1973, p. 132.
  7. ^ Pargiter 1972, p. 257.
  8. ^ Samuel, p. 71.
  9. ^ Law 1926, pp. 34–85
  10. ^ Raychaudhuri 1972, pp. 89–90
  11. ^ Oldenburg 1822, p. 393.
  12. ^ Raychaudhuri 1972, pp. 88–9
  13. ^ Raychaudhuri 1972, p. 138
  14. ^ Raychaudhuri 1972, p. 186
  15. ^ a b Sastri 1988, p. 17.
  16. ^ Mahajan 1960, p. 318
  17. ^ Thapar 2001, pp. 7–8
  18. ^ Lahiri 1974, pp. 21–4
  19. ^ Bhandare (2006)
  20. ^ Lahiri 1974, p. 141n
  21. ^ Bhandare 2006, pp. 77–8, 87–8
  22. ^ Falk 2006, p. 149

参考文献

  1. Bhandare, S. (2006), Numismatic Overview of the Maurya-Gupta Interlude in P. Olivelle, ed., Between the Empires: Society in India 200 BCE to 400 CE, New York: Oxford University Press, ISBN 0-19-568935-6 .
  2. Falk, H. (2006), The Tidal Waves of Indian History in P. Olivelle, ed., Between the Empires: Society in India 200 BCE to 400 CE, New York: Oxford University Press, ISBN 0-19-568935-6 .
  3. Lahiri, B. (1974), Indigenous States of Northern India (Circa 300 B.C. to 200 A.D.), Calcutta: University of Calcutta .
  4. Law, B. C. (1973), Tribes in Ancient India, Poona: Bhandarkar Oriental Research Institute 
  5. Pargiter, F.E. (1972), Ancient Indian Historical Tradition, Delhi: Motilal Banarsidass .
  6. Raychaudhuri, H.C. (1972), Political History of Ancient India, Calcutta: University of Calcutta .
  7. Thapar, R. (2001), Aśoka and the Decline of the Mauryas, New Delhi: Oxford University Press, ISBN 0-19-564445-X 

コーサラ国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:59 UTC 版)

ブッダ (漫画)」の記事における「コーサラ国」の解説

マガダ国と並ぶ大国首都はサーバッティ。物語開始当初君主詳細不明だが、チャプラ格闘大会優勝時に国王夫妻一コマだけ小さく描かれている。シッダルタの少年期以降前王遠縁に当たるパセーナディが、物語終盤はその息子ビドーダバ国王となっている。物語開始からシッダルタ誕生までの期間事実上主役であったチャプラタッタ活躍は、コーサラ国が主な舞台となっていた。当初ブッダ敵対していたコーサラ国王子ビドーダバは後にブッダ帰依し国王となった後は仏教保護している。また、マガダ国竹林精舎と並ぶブッダ寺院祇園精舎ビドーダバ息子ジェータ長者スダッタによって築かれブッダにとっては晩年重要な拠点となったブッダ弟子ではデーパがコーサラ国の出身である。

※この「コーサラ国」の解説は、「ブッダ (漫画)」の解説の一部です。
「コーサラ国」を含む「ブッダ (漫画)」の記事については、「ブッダ (漫画)」の概要を参照ください。

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