阿含経とは? わかりやすく解説

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あごん‐きょう〔‐キヤウ〕【×含経】

読み方:あごんきょう

小乗仏教根本経典阿含経典総称漢訳経典では長(じょう)・中・雑・増一の四阿含、または小阿含加えた阿含とする。


阿含経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/07 03:34 UTC 版)

仏教用語
アーガマ
パーリ語 āgama
サンスクリット語 āgama
チベット語 ལུང་
(lung [1])
中国語 阿含
日本語 阿含
英語 "sacred work"[2] , "scripture"[3]
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阿含経(あごんきょう、あごんぎょう、: āgama, アーガマ)とは、最も古い仏教典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。阿含(あごん)とは、サンスクリットパーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である[1]。阿含の類義語には(ぶ、Nikāya)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている[1]

釈迦の死後、その教説は迦葉阿難を始めとする弟子たちを中心として何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した[1]。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが[1]、一般に紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われている[4] 。その経蔵はそれぞれ阿含(āgama, アーガマ)または(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた[1]

学術的見解

阿含経で現在伝世しているものは、『漢訳阿含経』と、スリランカミャンマータイなどに伝えられている上座部仏教の『パーリ仏典』である[1]。漢訳阿含経では増一四阿含(しあごん)があり、大正蔵では冒頭の阿含部に収録されている。『パーリ仏典』では五部が伝えられている。両者は、伝持した部派や原語は異なるものの、恐らく古代インドでオリジナルの阿含経典群が成立し、それらがそれぞれ漢語とパーリ語に訳されたと推測され、一定の対応関係にある。

大乗経典と『漢訳阿含経』とでは、『阿含経』の方が(漢訳される前のオリジナルの経典が)先にインドで成立したというのが通説である[5]。大乗経典の内容に関して、『阿含経』などで説かれる部派仏教の教義を「小乗の教え」と蔑視・批判し、大乗の教義こそが真の仏説(釈迦の教説)であるという思想が教義の根底にあるが、『阿含経』側には大乗思想についての言及や批判が全く見られないため、『阿含経』の方が先に成立し、その後それを批判する形で大乗経典が成立したと説明される(加上説大乗非仏説[6]。なお大乗加上説は、江戸時代の富永仲基が提示し、平田篤胤によって発展を見せた理論だが、現代に至るまで学術的に論破されたことは一度もなく、現代のアカデミックの場(仏教学界)においても定説とされている(すなわち大乗経典は釈迦の直説ではない)[7]

小乗阿含部の経々は、十の中に三つ四つは実に釈迦の口から出たる ままのこともあれど、大乗といふ諸経共は すべて全く後人が、釈迦に託して偽り作ったものに ちがいは無いでござる[8]
平田篤胤『出定笑語』

先に述べた通り、漢訳『阿含経』と『パーリ仏典』とでは内容が一部重複し一定の対応関係にあるため、『パーリ仏典』もまた大乗経典より成立が古いとするのが通説だが[9]、『パーリ仏典』は古い写本が存在せず、来歴も不確かな所があるため、この説に対する懐疑論も存在する。

構成

パーリ仏典』と、漢訳『阿含経』の主な対応関係は以下の通り。

  1. 長部」(: dīgha-nikāya, ディーガ・ニカーヤ) : 『長阿含経』(じょう-) - 長編の経典集。全30経。
  2. 中部」(: majjhima-nikāya, マッジマ・ニカーヤ) : 『中阿含経』 - 中編の経典集。全222経。
  3. 相応部」(: saṃyutta-nikāya, サンユッタ・ニカーヤ) : 『雑阿含経』(ぞう-)- 短編の経典集。全1362経。
  4. 増支部」(: aṅguttara-nikāya, アングッタラ・ニカーヤ) : 『増一阿含経』(ぞういつ-)- 法数ごとに集められた短篇の経典集。全473経を全11集にまとめたもの。
  5. 小部」(: khuddaka-nikāya, クッダカ・ニカーヤ) - 『法句経』(ほっくきょう)や『本生経』(ほんじょうきょう)など。漢訳では相当文が散在するが、主に大蔵経の「本縁部」に相当する。

漢訳『阿含経』の本来の所持部派

上座部仏教上座部スリランカ大寺派)で一括的に継承されてきた「パーリ五部」とは異なり、漢訳『阿含経』は部派仏教時代の異なる部派によって編纂されたアーガマの寄せ集めである。各部派の『阿含経』(アーガマ)の対応関係を示すと以下のようになる[10]

歴史

中国では、原初的な経典であることが指摘されたり、研究が行われた記録もあるが、重要視されることはなかった。天台宗教相判釈である五時八教では、阿含経は釈迦が布教最初期に説いた小乗の教えで、対機説法による方便(釈迦の真意でない教説)と解していた。

日本にも仏教の伝播初期から伝えられており、倶舎宗で研究されていたとされるが[11]、五時八教の影響が強かったため久しく読まれることがなかった。

江戸時代の町人学者富永仲基は『出定後語』で「大乗非仏説」を説いた。富永の大乗非仏説(大乗加上説)は現代に至るまで学術的に論破されたことは一度もない[12]。富永は大乗経典よりも成立が遡ると見られる阿含経についても学術的な検証を行い、「其実阿難所集則纔阿含数章已」(その実、阿難の集むる所は則ち纔かに阿含の数章のみ)[13]すなわち阿含経のうち釈迦の直説と考えてよいのはせいぜい数章だけで、他の大部分は後世の付加であると考察した。

昭和期の仏教学者や仏教学界は富永の阿含経についての考察を概ね踏襲していた。昭和期に活躍した中村元は最古層の仏典と推測されるスッタニパータ四諦などの仏教の基本教義が見えないことを理由に、『パーリ仏典』の教義や戒律などの大部分は釈迦入滅後に段階的に成立したとする説を唱えた。現代の研究では段階発展説を否定する見解もあり、例えば清水俊史は、言語学的にみてスッタニパータが最古層の仏典であることは認めるが、スッタニパータのような韻文は大衆向けの通俗的なもので仏教の教義を体系的に網羅したものではないので仏教の基本教義が見えなくてもそれらが後世に創作されたという証拠にはならず、『パーリ仏典』に見られる教義や戒律は古くから存在するもので後年に段階的に発展したものではないとしている(すなわち大部分は釈迦直説であるとする)[14]

研究史

『阿含経』はむしろ近代文献学を事とするヨーロッパの研究者たちによって正当な評価を受けた。

上述の通り、阿含経は日本の仏教者にとって永らく注目されずにあったものだが、ヨーロッパの研究者に学んだ明治以降は日本でも盛んに研究され今日に至っている。以下、パーリ語の研究史とも併せて略史を記す。

研究の契機は、イギリスによるセイロン島支配(1815年に英領編入が完了)であった。1824年、イギリス人宣教師クラフによってパーリ語の文法書が出版[15]されて以来、まずパーリ語の研究が始まる。これはセイロンの歴史書研究の必要性からであった。フランスも、同じくパーリ語仏教圏であるタイビルマに勢力を伸ばしており、1826年ビュルヌフによるパーリ語に関する学的論文が発表される。やがてこれらの研究の成果として、1837年セイロン島史『マハーヴァンサ』(大史)がパーリ語原典からターナーによって英訳された。

ブライアン・ホートン・ホジソン

同じ頃、ブライアン・ホートン・ホジソンによって1826年にネパールサンスクリット(以下、梵語)仏典が紹介されており、欧州は仏典に梵語によるものとパーリ語によるものの別が存在することを知った。この両者の新古をめぐって論争が起こり、仏典の比較研究が始まる。1852年に上述のビュルヌフは『法華経』をフランス語訳したが、このようにパーリ語仏典の研究は梵語の研究と深い関係を持つものであった。ホジソンはやがて梵語仏典が古層であるという自説を撤回したが、ビュルヌフにしても、梵パ仏典の前後関係については資料不足のために結論を出すことは出来なかった。

1855年ファウスベルが『法句経』のパーリ語原文とラテン語訳を出版して以降、原典出版が盛んとなり、1881年にはリス・デイヴィッズによってパーリ聖典協会(Pāli Text Society)がロンドンに設立され、パーリ語学者の総力を挙げて組織的な出版が開始されるに至る。今日に至るまで、同協会の出版がパーリ語仏典研究の基礎である。

既に記したように、パーリ語の研究は当初キリスト教の宣教師によって開始されたもので、宣教師の研究動機は「仏教よりもキリスト教が優れている」ことを証明するため[16]であった。これに対し、植民地支配の構造とも相俟って劣勢に置かれた仏教徒の反論がなされた。1873年セイロンのグナーナンダは新聞社主催の討論でキリスト教を論破し、仏教の威信を回復した。これを機会に1874年コロンボヴィドヨーダヤ大学が設立されて、仏教徒による研究が起こった。

セイロンの仏教は、ポルトガルオランダヒンドゥー教徒の国王の迫害などによって数度にわたり出家比丘サンガの伝統が途絶えた。現存する比丘サンガは、1756年にタイから、ついでビルマから具足戒を逆輸入することで復興された。このために、タイ・ビルマの仏教徒の研究と出版の成果が、国際色の強いセイロンから発表されるという構図を取ることとなった。セイロンは南伝上座部仏教の国際センターといった地位を獲得したのである。

明治以降の日本の仏教者も、セイロンやタイへの留学が先行して流行した。その後、梵語仏典やインド哲学一般との関係、仏教一般といった視点の獲得を求めて欧州への留学が盛んとなった。日本の仏教者は大乗仏教徒であり、欧州留学の主要な動機も梵語研究にあった。しかし、梵語を習得すればパーリ語の読解も比較的容易であるため、当初は梵語に比べて二次的な関心しか払われなかったパーリ語研究も、時間が経つにつれて梵語・パーリ語・漢語・チベット語の比較対照研究といった方面から盛んとなる。

南条文雄は1883年に英訳『大明三蔵聖教目録』(南条目録と呼ばれる)を出版したが、その中で漢訳の阿含経とパーリ語のアーガマが対応関係にあることを指摘した。この、漢訳仏典との関係という方面については、欧州ではほとんど研究されていない分野であり、その関係も不明とされていた。

高楠順次郎が1896年に漢訳『善見律毘婆沙』がパーリ語律蔵の注釈書『サマンタパーサーディカー』の翻訳であることを発表、パーリ語仏典と漢訳仏典の対応を証明した。高楠は帰国後に東京大学で梵語とパーリ語の講義を開始、その後に彼の主導によって編纂がなされた『大正新修大蔵経』には、阿含部と律蔵についてパーリ語仏典の相当箇所が注記されている。

姉崎正治
椎尾弁匡

姉崎正治椎尾弁匡によるパーリ五部と漢訳四阿含の綿密な対照研究以降、渡辺海旭長井真琴・干潟竜祥・渡辺楳雄・赤沼智善木村泰賢宇井伯寿らに[17]よってなされた比較研究は、漢文を苦手とした二十世紀初頭までの欧州の研究を基礎としつつ、伝統的な漢訳仏典研究の基盤というアドバンテージのある日本の研究者の独擅場となる。ここに、日本の近代仏教学の国際的地位が確立した。その精華として、日本の研究者がその総力を挙げてパーリ語の仏典を国訳した『南伝大蔵経』は、翻訳事業としては欧州の研究を規模において凌ぐものであった。

中村元三枝充悳は、『阿含経』の重要性を強調するいっぽうで「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」と主張している[18]。中村は「釈迦は教えを説いた哲学者のような人物で宗教家ではなかったが、死後に神格化されて上座部仏教大乗仏教が成立した」と捉えていた。また中村は『パーリ仏典』は段階的に成立したとして経典を「最古層」「古層」「新層」に分類した[19]。中村説は日本仏教学界で大きな影響力を持つに至った。

三枝充悳は「ゴータマ・ブッダおよび初期仏教の思想その他は、以上の四阿含と五ニカーヤとを資料としてのみ、学び知ることができる」[20]と述べる一方、「(阿含経の)原型はブッダ入滅後まもなくまとめられ、伝承の間に多くのものを付加した。現存の経の成立はかなり遅い」[20]とし、現存の『阿含経』相当部分は釈迦の直説ではないとしている。一方で、テキストの中に釈迦の金口直説(こんくじきせつ)が含まれるのだとすれば、それは阿含と律であるとする[21]

中村元がかつて主張していた「釈迦は教えを説いた哲学者のような人物で宗教家ではなかったが、死後に神格化されて上座部仏教大乗仏教が成立した」という非仏説論に関しては、古代インドの宗教観、聖者信仰を踏まえれば、釈迦は何らかの宗教行為を目指しており在世中から既に神格化されていたと考える方が適当だとして、現在は否定されている[19]。また『パーリ仏典』の段階発展説については現在論争中であるが、段階発展説を採用するにしても、中村の提示した『パーリ仏典』経典の「最古層」「古層」「新層」の分類は根拠不十分であるとして現在懐疑的に見られている。大谷大学教授の新田智通は、スッタニパータが最古層の経典であることには同意しているが、他の分類に関しては「中村はゴータマ(釈迦)の神格化の過程を論証したのではなく、ただ自分自身の設けた判断基準にしたがって分類したに過ぎない」と辛辣に批判している[19]

内容

南伝阿含経(パーリ仏典)の信頼性

山中行雄が「東南アジア地域においては,現存写本の数自体が膨大である一方,高温多湿の気候,写本の保存体制の不備等から,古写本の保存が極めて困難で,15世紀以前の写本を発見することは,かなり稀である」と論じるように、『パーリ仏典』は古い写本が存在しない[22]

高等批評研究では、『パーリ仏典』は古い写本が存在しないが、『パーリ仏典』の方が大乗経典より成立が先行するというのが通説である。その理由について、例えば『大般涅槃経』では『パーリ仏典』収録の『大パリニッバーナ経』を改変して、大乗版『大般涅槃経』を創作したと考えると辻褄が合うこと[23][24]、『パーリ仏典』に登場する言語や地名は文献史学的に見て古いと認められることなどが挙げられる。言語学的観点からは『パーリ仏典』のスッタニパータ4・5章は、古代ヴェーダ語の語形が現れることが多いことなどから前田惠學は最古層の仏典であるとする説を唱えた[25]。この説は現在定説となっている[26]。また現存最古の仏教写本であるガンダーラ語仏教写本からもスッタニパータの「犀角の句」が確認されている[27]

インド学者でパーリ語の専門家であるオスカー・フォン・ヒンヌーバーは、文献学的に見て『パーリ仏典』に収録される『大パリニッバーナ経』の中には、釈迦の生前に近い時期に遡る非常に古風な地名、構文が残っていると指摘し、成立年代を紀元前350年から紀元前320年頃とする説を提示している [23][24]

以上が通説であるが『パーリ仏典』の成立年代や内容の信憑性を疑う見解がある。とりわけ大乗非仏説を巡る論争で「上座部仏教の優位性」を否定する立場からこの説が唱えられることが多い。『パーリ仏典』の成立年代や信憑性を疑う学説としては以下がある。

下田正弘は文献史学(高等批評)研究を踏まえれば、「元々オリジナルの仏説が存在し、それを改編して大乗経典が成立したこと(大乗非仏説)」自体は学術的に正しいと認めているが[28]、漢訳経典(漢訳阿含経・漢訳大乗経典)と『パーリ仏典』を比較したとき、パーリ仏典は古い写本が現存していないこと、伝承の系譜が不明であるパーリ仏典を根拠として紀元前の釈迦の説法を復元推定するのは学問的方法としておかしいと下田は主張した。下田は「K. R.ノーマンおよびO.フォン=ヒニューバによれば,現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀という,きわめて近年のものである(von Hinüber 1983, 78; 1994, 188; Geiger and Norman 1994, XXV).しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため,近代以前の足跡は写本自身から知りえない.この点,漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると,その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある」[29]と述べている。

中村元は『パーリ仏典』収録の『大パリニッバーナ経』の翻訳において、「(西晋の恵帝の時代の漢訳仏典である)白法祖本には欠けているから後代の付加であろう」(中村1980[30]p.254)と指摘するなど、写本年代が明らかな漢訳阿含経の方を正とすれば、パーリ仏典側に改変の痕跡が認められるとした。

パーリ仏典』はスリランカブッダゴーサが正典と定めた仏典を底本としているが、馬場紀寿ブッダゴーサが非仏説(釈迦が説いたものではない)として大乗経典を恣意的に排除し、また採用した仏典についてもブッダゴーサが信じる教説にそぐわない箇所は改ざんが行われたとする説を唱えた。この馬場説は大乗非仏説に対する一つの反論(上座部仏教も非仏説論・真の仏説不明論)とされてきた[31]

こうした見解に対して清水俊史は、ブッダゴーサは仏典注釈者としての本分を務めたにすぎず、馬場紀寿の主張するような大規模な経典の改ざんは行わなかったとした。また清水は『パーリ仏典』の写本年代のみに着目するのは適当ではなく、高等批評研究に基づき総合的に勘案すれば『パーリ仏典』の成立年代は大乗経典よりも先行することが明らかであると説明している[14]

漢訳阿含経の信頼性

漢訳の『阿含経』はパーリ語のニカーヤを原典とした翻訳とは考えられない形跡があり、俗語やサンスクリット語で伝えられていた原典がパーリ語訳とは別に漢訳されたと考えられている。一般に、漢訳は意訳も多く、明らかに原語にない言葉が挿入されている場合がある[32]

以上のように、漢訳『阿含経』の信頼性はより低いものという見方もある。

日本語訳

全訳

  • 『国訳一切経』「印度撰述部 阿含部」 第1-10巻 大東出版社

部分訳

  • 『新国訳大蔵経』「長阿含経I-III、雑阿含経I-II」 大蔵出版
  • 『現代語訳「阿含経典」』 第1-6巻(長阿含経) 平河出版社

脚注

  1. ^ a b c d e f g 馬場紀寿 2018, pp. 56–59.
  2. ^ Monier-Williams (1899), p. 129, see "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Cologne" at http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/scans/MWScan/MWScanpdf/mw0129-Akhara.pdf.
  3. ^ Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 95, entry for "Āgama," retrieved 12 Dec 2008 from "U. Chicago" at http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:2582.pali.
  4. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿含経」 https://kotobank.jp/word/阿含経-24948
  5. ^ 菅野博史『富永仲基と平田篤胤の仏教批判』2015年
  6. ^ 平川彰『平川彰著作集[5]大乗仏教の教理と教団』1989年 p.68
  7. ^ 菅野博史『富永仲基と平田篤胤の仏教批判』2015年
  8. ^ 菅野博史『富永仲基と平田篤胤の仏教批判』2015年
  9. ^ 平川彰『平川彰著作集[5]大乗仏教の教理と教団』1989年 p.68
  10. ^ 「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の目的と方法論 - 【10】本研究の原始仏教聖典観とその取り扱い方 中央学術研究所、森章司
  11. ^ 友松 1981, p. 17.
  12. ^ 菅野博史『富永仲基と平田篤胤の仏教批判』2015年
  13. ^ 富永仲基『出定後語』「如是我聞第三」。 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/992108/1/12
  14. ^ a b 清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021)p40-50
  15. ^ Clough,Benjamin: A Compendious Pali Grammar, with a Copious Vocabulary in the same Language, Colombo, 1824.
  16. ^ 水野弘元『パーリ語文法』(山喜房仏書林, 1955), pp209. 注で当時の宣教師P. Bigandetが出版した仏伝の序文も掲載している。
  17. ^ 友松 1981, p. 35.
  18. ^ 中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫、2009年)p.52
  19. ^ a b c 桂ほか 2013, p. 85.
  20. ^ a b 三枝充悳、日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿含経」 https://kotobank.jp/word/阿含経-24948
  21. ^ 『仏典解題事典』(春秋社, 1966, 1977) 阿含経の項目参照。
  22. ^ 山中行雄「東南アジアおよび南アジアにおけるパーリ語文献の写本伝承」印度學佛教學研究 65 (2), 757-756, 2017 NII論文ID 130006314815
  23. ^ a b オスカー・フォン・ヒンヌーバー "Hoary past and hazy memory. On the history of early Buddhist texts", in Journal of the International Association of Buddhist Studies, Volume 29, Number 2: 2006 (2008), pp.198-206
  24. ^ a b see also: Michael Witzel, (2009), "Moving Targets? Texts, language, archaeology and history in the Late Vedic and early Buddhist periods." in Indo-Iranian Journal 52(2-3): 287-310.
  25. ^ 前田惠學 『原始仏教聖典の成立史研究』 山喜房仏書林 1964
  26. ^ 並川孝儀 『スッタニパータ 仏教最古の世界』 岩波書店 2008
  27. ^ Salomon, Richard (1999). Ancient Buddhist Scrolls from Gandhara: The British Library Kharosthi Fragments. University of Washington Press. pp. 141-155 
  28. ^ 佐々木閑『下田正弘とグレゴリー・ショペン』2012年
  29. ^ 下田 正弘「「正典概念とインド仏教史」を再考する――直線的歴史観からの解放――」印度學佛教學研究 68 (2), 1043-1035, 2020-03-20  NII論文ID 130007899192
  30. ^ 中村元訳『ブッダ最後の旅: 大パリニッバーナ経』(岩波文庫、1980年)
  31. ^ 佐々木閑「〈評論〉ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争1」「〈評論〉ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争2」「〈評論〉ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争3」
  32. ^ アングリマーラ経鴦掘摩経

参考文献

関連項目

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