コーコラン師団と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/31 19:31 UTC 版)
「マイケル・コーコラン」の記事における「コーコラン師団と死」の解説
コーコランは軍隊に復帰し、さらに多くのアイルランド系志願兵の徴募に取りかかった。コーコランは、後にコーコラン師団と呼ばれることになる部隊を立ち上げ、その指揮を執った。そのリージョンは次の連隊で構成された。 第1連隊:第1及び第6連隊から結成、後に第182ニューヨーク歩兵連隊 第2連隊:第5及び第6連隊から結成、後に第155ニューヨーク歩兵連隊 第3連隊:第3、第7及び第8連隊から結成、後に第164ニューヨーク歩兵連隊 第4連隊:第2連隊から結成、後に第170ニューヨーク歩兵連隊 第5連隊:旅団とは従軍せず、後に第175ニューヨーク歩兵連隊 第6連隊:最小勢力以下、後に第1及び第2連隊の一部 第7連隊:最小勢力以下、後に第3連隊の一部 第8連隊:最小勢力以下、後に第3連隊の一部 コーコランは第7軍団第1師団長になり、デザーティドハウスの戦いに従軍し、サフォーク包囲戦に参加した。1863年遅く第22軍団の師団長となり、ワシントン防衛任務に戻った。1863年12月22日、単独で騎乗している際に騎馬が倒れ、頭蓋骨骨折で死んだ。36歳だった。 コーコランは、そのアイルランド系アメリカ人部隊によって大いに偶像視された。その名前とさらにニューヨーク第69連隊とは当時のアイルランド系北軍兵のバラードの多くに登場する。 『アメリカのアイルランド旅団』:'ジェファーソン・デイヴィスが警鐘を鳴らした時、コロンビアの息子達は軍隊に殺到し、我等の高貴な民兵隊はワシントンに急行した。勇敢なるマイケル・コーコランを行軍の先頭にして' 『連隊の歌』:'我々には誇りと勇気と大胆さを持つ戦う志願兵がいる。トーマス・フランシス・マハーとその勇敢な息子エリン、マサチューセッツ第9連隊、マイケル・コーコランのアイルランド・リージョン、そしてあらゆる州と地域のすべての兵卒が' 『戦う第69連隊』:'...彼らはアイルランドからやってきた勇敢で頑健、大胆な男達だ。そして全員の指導者がいる、その名はコーコラン' 『緑を着た若者達』:'...コーコラン大佐がその波瀾に富んだ日に第69連隊を指揮した。私は皇太子がそこに居て戦う彼を見てくれたらと思う。彼の砲台への突撃は最も栄光に満ちた光景だ。勇敢なニューヨークの消防士達と共に、また緑を着た若者達と共に' 『アイルランドの志願兵』:'...皇太子がここにやって来てハバブーをした。おー、皆が、分かるかい、金と金ぴかで装った。しかし、良き古き第69連隊はこれらの貴族の輩を好まない。彼らは王様達を罵らない。アイルランド志願兵達!我々は自由の土地を愛し、その法を尊敬する。「しかし悪魔は貴族を取るさ」とアイルランド志願兵は言っている。'
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