祖国戦争
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祖国戦争
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「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「祖国戦争」の解説
詳細は「1812年ロシア戦役」を参照 1812年6月24日ナポレオンの率いる総勢69万1500人の大陸軍は、ロシア国境のネマン川を渡河し、ヴィルノに集結し、ロシア領内に侵入した。ロシア軍はこれを迎え撃たず、後退する焦土作戦を採った。アレクサンドル1世は、後退策が消極的であるとの批判が起こると総司令官バルクライ・ド・トーリを解任し、後任にクトゥーゾフ将軍を任命した。クトゥーゾフは、ボロジノの戦いで激突した後は軍を後退させ、9月14日ナポレオンはモスクワに入城した。しかしその夜、モスクワは大火に見舞われた。ナポレオンは撤退を決断し、フランスが誇る大陸軍は退却を開始した。 アレクサンドル1世はモスクワ大火と冬将軍で大陸軍をロシア国内から退去せしめたが、その勢いに乗じて、対仏大同盟を復活させることに成功した。1812年7月18日、フィンランドでスウェーデン王太子に任命されたベルナドットと友好関係を結び、スウェーデンを対仏同盟側へと復活させた。その折りにベルナドットにノルウェーの取得とフランスの王位推戴を約束することで、フィンランドのロシア領は確定する。1813年と1814年の諸国民の戦い(第六次対仏大同盟)に乗じてアレクサンドル1世は軍を進め、パリに入城した。 モスクワ炎上後の様々な出来事は、アレクサンドル1世の精神を昂揚させ、後にドイツ人牧師アイレルトに対して、「モスクワの大火は私の魂を照らし出した。その時、私は初めて神を知ることができ、別人となった」と述べ、「我が魂は今や光明を見出し、神の啓示により自分はヨーロッパの調停者という使命を帯びることとなった」と断言するようになった。 こうしてナポレオンの失墜後、ヨーロッパ最強の君主となったアレクサンドル1世は、ヨーロッパに新たな国際秩序を再建すべく「ヨーロッパの救済者」としての自負を持ってウィーン会議に臨んだ。アレクサンドル1世は列強の首脳たちに対してキリスト教精神に基づく「神聖同盟」構想を発表し、これは最終的には実現を見たが、彼の神秘主義的、敬虔主義的態度は、列強首脳の冷笑と不信、猜疑心を募らせることとなった。アレクサンドル1世は真剣ではあったが、それ故に列強首脳は神聖同盟を言葉通り受け取ることはなく、ロシアの一層の覇権確立のための手段と受け取っていた。また、ヨーロッパやロシア国内の自由主義者たちは、彼の言動は偽善に過ぎないと受けとめていた。これに対して、アレクサンドル1世はロシア国内の反対を押して1815年にポーランド立憲王国を復興し、ポーランドに対して憲法を与え、国会の開会を勅許した。また1809年に獲得したフィンランドもフィンランド大公国として承認され初代大公となった。ただスウェーデン王太子ベルナドットのフランス王への推戴は反発もあって取り下げた。
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