祖国復帰の達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 06:07 UTC 版)
「沖縄返還」も参照 1965年8月19日、佐藤栄作首相が沖縄を訪問し、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない」と述べた。来沖の背景としてはベトナム戦争に対する反戦運動と祖国復帰運動があった。日本政府としては、明治以来領土の一部であった沖縄返還の実現はサンフランシスコ平和条約締結による主権回復後の重大課題であったが、一方、アメリカ政府からは「沖縄を返せというのなら日本は極東の安全保障にもっと貢献せよ」と迫られ、日本国憲法の制約もあって防衛力増強に関与できない日本政府は、沖縄問題への言及を避けざるを得なかった。そして、祖国復帰運動は、1960年代後半のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地になると、いっそう反米・反戦色を強めて激しさを増し、事あるごとに琉球列島米国民政府と対立するようになった。ここに至って日米両国は、日米関係の安定と極東全体の安全保障のために沖縄問題は避けて通れないという共通認識に立つようになった。アメリカ合衆国政府は沖縄問題をこのまま放置すると、近い将来基地機能が維持できなくなるとの危機感を持ち、1966年までには沖縄返還の検討を始めるようになった。 1968年11月、住民の直接選挙による行政主席公選制が実施され、第1回行政主席通常選挙が行われた。この選挙では、祖国復帰運動の中心人物であった屋良朝苗が、段階的復帰を唱える沖縄自由民主党の西銘順治などを破って当選した。屋良は、即時無条件の全面復帰を打ち出し、以後、返還協議が本格的に始動した。 1969年の日米首脳会談では日米安全保障条約の延長と引き換えに沖縄返還が約束された。また、このときの日米共同声明により、1972年中には沖縄の施政権をアメリカが日本に返還することが明らかにされた。1970年3月、日米琉の代表が復帰に向けての対策などを話し合う復帰準備委員会が那覇市で発足した。 1970年8月、琉球立法院は尖閣諸島の領土権が沖縄・祖国日本に帰属することを全会一致で議決した。1971年6月、日米両国は沖縄返還協定に調印、1972年5月15日に沖縄返還が実現した。
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