祖国解放戦争期の政党活動
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「トルコの政党」の記事における「祖国解放戦争期の政党活動」の解説
第一次世界大戦の敗北により、連合国軍によるオスマン帝国の分割占領が決定すると、大戦中の英雄であるムスタファ・ケマルは、各地域で発生した抵抗運動をまとめ、「アナトリア・ルメリ権利擁護委員会」(Anadolu ve Rumeli Müdafaa-i Hukuk Cemiyeti)を結成し、オスマン帝国の領土保全と連合国軍への抵抗を呼びかけた。1919年の総選挙で選出されたオスマン帝国議会もこれに同調し、1920年1月にオスマン帝国の領土保全を謳う「国民誓約」(Misak-ı Millî)を採択した。 1920年3月に首都イスタンブールを占領した連合国軍の圧力を恐れたメフメト6世政府は、議会を解散し、抵抗運動の沈静化を図った。これに対して、ケマルは、1920年4月に旧オスマン帝国議会の議員と権利擁護委員会メンバーからなるトルコ大国民議会をアンカラで開催した。大国民議会はケマルを議長に選出し、イスタンブールのスルタン政府から独立した政府を成立させたため、トルコは、イスタンブールとアンカラの二重権力状態になった。 ケマルは、アンカラ政府の中枢から旧統一派勢力を排除すると共に、人民社会主義党、トルコ共産党を結成し、勢力を拡大しつつあった左派勢力を壊滅に追い込み、祖国解放戦争の主導権を握った。 アンカラ政府は、連合国軍との戦いを優勢に進め、1923年7月に連合国との間にローザンヌ条約を締結して、アナトリアの領土を確保した。同年11月にはスルタン制が廃止され、トルコ共和国が建国された。
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