クトゥーゾフ
ミハイル・クトゥーゾフ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 00:06 UTC 版)
ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ公爵(ロシア語: Михаи́л Илларио́нович Голени́щев-Куту́зов、ラテン文字転写: Mikhail Illarionovich Golenishchev-Kutuzov、1745年9月16日〈ユリウス暦9月5日〉 - 1813年4月28日〈ユリウス暦4月16日〉)は、帝政ロシア時代の軍人。エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の3代にわたって仕え、外交官としても活躍した。
注釈
- ^ クトゥーゾフはマムルーク朝第3代スルタンのムザッファル・クトゥズの"クトゥズ"と同一起源である。
- ^ ナポレオンはボロジノの戦いについて、流刑地のセントヘレナ島で、「自分の生涯で最も凄惨な戦いだった」と回想している。倉持(1994)p.126
- ^ 市内への放火はモスクワ総督ロストプチンの命によっておこなわれた。和田(2001)p.90
- ^ カザン聖堂は1801年に竣工し、1811年に完成したロシア正教会の大聖堂である。
出典
- 1 ミハイル・クトゥーゾフとは
- 2 ミハイル・クトゥーゾフの概要
- 3 脚注
クトゥーゾフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:08 UTC 版)
「栄光のナポレオン-エロイカ」の記事における「クトゥーゾフ」の解説
ロシアの将軍。ナポレオンのロシア遠征を、いわゆる焦土戦術で敗走へ導いた。本作中では、アレクサンドルから軽んじられながら、ここぞと言うとき真価を発揮する「昼行灯」型の老将というイメージで描かれている。ロシア国外までナポレオン軍追撃については、本作では兵員の疲労を考慮してこれ以上の戦闘は無理だとアレクサンドルに哀願する姿が描かれている。結局はナポレオンとの完全決着にこだわるアレクサンドルに押される形になったが、再びフランス軍と交戦する前に病没、ナポレオンからもあっぱれな敵将だったと哀悼された。
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