連合軍の作戦と布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:26 UTC 版)
「アウステルリッツの戦い」の記事における「連合軍の作戦と布陣」の解説
12月1日に開かれた連合軍の作戦会議では、連合軍指揮官の多くが会敵して南側面を制圧し、ウィーンとの連絡線を遮断する作戦を提案した。ロシア皇帝とその側近たちは攻撃を主張していたが、オーストリア皇帝はやや慎重であり、彼は連合軍総司令官であるクトゥーゾフの助言を受けていた。だが、ロシア貴族やオーストリア軍指揮官たちの攻撃論は強硬であり、最終的に連合軍はオーストリア軍参謀長ワイロッテルの作戦案を採用した。 この作戦案ではフランス軍右翼(南側)に対する攻撃を主攻とし、この意図を隠す為に敵軍左翼(北側)に助攻を仕掛けることになっていた。連合軍は戦力の大部分を4つの縦隊に編成させており、クトゥーゾフとブクスホーデンが指揮する、これらの縦隊がフランス軍右翼を攻撃、コンスタンツ大公のロシア軍近衛軍は予備戦力とされ、バグラチオン中将が右翼(北側)を守ることになった。 その上、ロシア皇帝は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった。会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている。
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