連合軍の不和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 15:19 UTC 版)
「ブレーメン=フェルデン戦役」の記事における「連合軍の不和」の解説
ミュンスターとリューネブルクは事前にデンマークとブランデンブルクを除外し、将来のブレーメン=フェルデンの分割に合意していたため、スウェーデンに対する戦闘行為の継続を妨げ、危うくさせるような激しい対立が同盟各国の間で生じた。例えばミュンスターはフェルデン司教区の他にヴィルデスハウゼン、ブルク、ブレーマーフェルデ、オッタースベルクとテディングハウゼンの各警察区(ドイツ語版)を要求していた。残りはリューネブルク=ツェレに属すとされたのである。デンマークとブランデンブルクはこれに対し、占領地の等分を迫った。デンマークはカールスブルクとシュターデ、即ちヴェーザー川とエルベ川の河口の支配を要求した。この後、ポメラニア戦役においてミュンスター及びリューネブルクからの援軍と交換できるようにするためである。 妨げとなる領土要求を巡る対立は、同盟国間で公然とした戦闘が差し迫るほど深刻化した。ネーデルラントはこの状況下、対仏戦争を危機に晒さないよう各国の仲介を試みる。そしてまず使者のファン・デア・トホト、続いてアメロンヘンを交渉のためブレーメンに派遣した。オランダ総督のオラニエ公ウィレム3世は、ブレーメン=フェルデン公領の全要塞の廃城、最終的な分割をナイメーヘンの講和会議で協議すること、そして両公領の管理を一時的にリューネブルクとミュンスターに委託することを提案した。ブランデンブルクとデンマークは、期待に反してポメラニアとスコーネで「補償」を得られない場合、ブレーメン=フェルデンの一部に対する権利を明文とともに留保することになった。ブランデンブルクの駐デン・ハーグ公使は係争地の一時的な分割を達成しようと望んでいたが、3月28日にはこの条約に同意した。この戦役を継続するためには避けられない、同盟国間の争いの解決を果たすには他に手段が見つからなかったからである。 ブランデンブルク選帝侯は公使の判断を承認しなかったが、ポメラニアにおける対スウェーデン戦争の有利な戦況を背景として、リューネブルクからの援軍と引き換えに自身の要求を放棄した。それでも選帝侯は1677年の初頭、デンマークと秘密協定を結び、「分割されるブレーメン=フェルデンの少なくとも1/5を得ること」に対する同国の支持を確保している。
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